歴史散歩
2017-5-30
瀬田・石山の神社、史跡と大津鉄道遺跡


JR瀬田駅から萱野神社→御霊神社→近江国庁跡→建部大社→
瀬田の唐橋→御霊神社(2)→住友活機園→京阪石山寺駅まで歩き
瀬田・石山付近の神社・史跡を巡りました。

昼食後、石山寺→(京阪電車)→島ノ関→京阪浜大津→疎水取水口→
東海道旧線逢坂山隧道と鉄道遺跡を巡りながら、大津駅の変遷をたどりました。

途中の瀬田の唐橋で記念写真、まだ全員揃っています。

 
 萱野神社                         注連縄の亀
瀬田駅北口を出て、すぐのところに萱野神社はあります。
和銅8年(715年)干ばつで雨乞い祈願をしていると、洞窟より亀が這いだし大雨が降りだした故事
により、注連縄に亀があしらわれています。和銅の次の元号は霊亀...何か関係があるのかな...?

 
強い日差しの中、御霊神社に向かっています。御霊神社とは遺恨の死を遂げた人々の御霊を祀ったもの。
ここでは38代天智天皇の崩御後、息子でありながら、叔父の大海人皇子と争い(壬申の乱 672年)、
敗れた大友皇子を祀っています。大海人皇子は40代天武天皇となり、都は近江から飛鳥へ戻りました。

 
近江国庁跡                      説明を聞いています。
 国庁とは、天皇を中心とした統一国家を作ろうとして、全国68箇所に設置された役所です。
都から派遣された国司が県庁、警察署、裁判所、税務署の役割を担っていました。
   
 
建部大社  拝殿と神木
社伝では景行天皇46年(316年)に、日本武尊の死後、妃の布多遅比売命(ふたじひめのみこと)
が神勅によって、神崎郡建部郷千草獄(現在の東近江市五箇荘伊野部町付近の箕作山)に、
日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。 天武天皇4年(675年)に近江の守護神
として、現在の栗太郡勢多へ遷座したといわれています。 

 
瀬田の唐橋で2題
「唐橋を制する者は天下を制す」
瀬田の唐橋は1889年(明治2年)まで瀬田川にかかる唯一の橋で、交通の要衝であり、
京都防衛上の重要地であるため壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など
様々な戦乱の舞台になりました。

「急がば回れ」の由来
室町時代の連歌師柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が
「もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」
と詠んだのが起こりです。
東海道の草津宿から大津宿を抜けて京都へ向かうのに、
草津の矢橋から大津の石場まで琵琶湖を横断する船のルートは約6km
と短いが、比叡山から吹き下ろす突風で舟が転覆するなど危険がある。
瀬田の唐橋を経由して陸路を約12kmを行くほうが、安全で確実という意味です。

 
瀬田川の土手には俵藤太や彼が退治したムカデが敷石やタイルを使って表されています。

 
本日2つ目の御霊神社にお参り。 ここにも大友皇子が祀られています。
神社の説明書きには遺恨の記載はなく、鎮守の森として生育している樹木名が書かれています。

 
住友活機園 住友財閥の総理事 伊庭貞剛氏が引退にあたって建造した住宅と庭園。
いまは、直ぐそばを名神高速道がぎりぎりかすめて通っています。

京阪電車石山寺駅付近の広場で休憩して弁当を食べました。石山寺から島ノ関までは電車で移動。
現在の京阪浜大津駅まで歩きながら、大津駅の変遷をたどりました。

東海道線は滋賀県で関ケ原から長浜までが1883年(明治16)に開通しました。
その先の大津(初代=現在の浜大津)までは航路(太湖汽船)で繋がっていました。
逢坂山トンネルの出口と初代大津駅は高低差が大きく、直接結ぶことができず、
馬場(現在の膳所駅)を経由し、スイッチバックして大津駅とつながっていました。

1889年(明治22)馬場→米原→関ケ原が開業して航路が廃止されました。馬場→大津間は
旅客営業が廃止され、貨物用の支線となりました。
1913年(大正2年) 馬場駅が2代目大津駅、初代の大津駅は浜大津駅になりました。

1921年(大正10年)東山トンネル、新逢坂山トンネルの開通に伴い、大津駅の西側の新ルート上に、
3代目大津駅が新しく建設され現在に至る。2代目大津駅は旧名称の馬場に戻り
貨物駅として使用されるが、1934年(昭和9年)旅客駅として膳所駅に改称された。

 
鉄道遺跡 東海道旧線逢坂山隧道
全長664.8m 1年8ヵ月の期間を要して、ノミやツルハシを使って手掘りで掘られた。
太政大臣 三条実美による扁額「楽成頼功」
1880年(明治13)から新トンネルができる1921年(大正10)まで使用された。


ゴール地点の逢坂山隧道で8名が残りました。