歴史散歩
2019-4-16

明治維新、特に長州に関係の深い場所を中心に歩きました。
行程 長岡京→東福寺 退耕庵 長州藩墓所 仲恭天皇陵
鳥羽街道→祇園四条  枡谷喜右衛門宅跡、三縁寺跡、小川亭跡
三条京阪→岩倉三縁寺

東福寺方面

 
退耕庵             門前で説明を聞いています。
1346年創建、応仁の乱で荒廃したが安国寺恵瓊により再興された。
恵瓊は毛利藩の外交僧として、退耕庵で京都の状況を調査、
信長の横死やその後の秀吉の活躍を予想、毛利藩に助言していた。
鳥羽伏見の戦いで長州藩の陣が置かれた縁で、戦死者の菩提寺となっている。

 
臥雲楼を抜けながら通天橋を見上げる。新緑が美しい。
 
三門から道路に出て、南岳墓地に向かう。この辺りは観光地の喧騒はなく、別世界のようです。
 
振り返ると京都市南部の市街地と愛宕山が見えます。          南岳墓地                
1868年(慶応4年)に始まった伏見・淀・鳥羽の戦いで戦死した長州藩の24名が当初埋葬
されていたが、その後別の戦いで亡くなったものを含め48基の墓標がある。

鳥羽街道駅まで歩き、京阪電車で祇園四条に向いました。

木屋町方面
 
祇園四条から鴨川を超えて木屋町通りを北上しました。
鴨川納涼床が今年も作られていました。今は重機を使うのですねえ。
 
古高俊太郎邸跡                  本間精一郎遭難の地(1862年)
古高俊太郎(1829-1864)は表向きは炭薪商を営む枡谷喜右衛門と称していたが、裏では
武器の調達を行い、住居は多くの志士が集う討幕派の拠点となっていた。新選組により
捕らえられた後、禁門の変で洛中が大火となった際、逃亡を防ぐため六角獄舎で処刑された。

本間精一郎は越後島泊(しまどまり)の醸造家の長男。江戸に出て遊学し安政の大獄後、
京に出て尊王攘夷運動に身を投じた。特定の藩に属していなかったため、自由に行動
できた反面、言動が過激なため土佐藩 岡田以蔵や薩摩藩 吉田新兵衛らに襲撃された。

 
             後藤象二郎寓居跡     木屋町通りと四条通を結ぶ路地にゆかりの地があります。
     1867年龍馬の提案とされる船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。
明治維新後も生き延び、要職に就く。
  
酢屋(材木商)
坂本龍馬が泊り大政奉還を目指した部屋が2階にあります。


小川亭跡で、てい女の話を聞いています。
小川亭は尊王派の志士達が会合に利用していました。
てい女は池田屋事件で亡くなった志士達の顔を見分けて、身元を
特定する手伝いをしたり、遺体を近くの三縁寺にお願いして
埋葬しました。


日本映画発祥の地
稲畑勝太郎は京都府派遣留学生としてフランスに留学。
アンチニエール工業学校で一通りの技術を習得後、
ジャンマルナス氏の工場でアニリン染料の技術を実習した。
帰国後、軍服の生地の染色で大きな利益を上げた。
リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフ(映画)、
興行権、フィルムを購入し1897年1月下旬、雪の降る夜
京都電燈株式会社の中庭(現立誠小学校跡地)で
試写実験に成功した。
他の地に先駆けて、実現できたのは蹴上に発電所が
あったことによる。

岩倉三縁寺方面
三条京阪から花園町までバスで移動。

 
      三条京阪近く、三縁寺が元あった所       駅整備で岩倉花園町に移転                

 
池田屋事件死没者の墓や碑 今も寺や縁の方がお参りされています。

ゴールの岩倉まで来たのは8人になりました。