歴史散歩
2016-5-31
渋谷街道を行く

古来 汁谷(しるたに)道とか苦集滅道(くずめぢ)とか呼ばれ、五条通りから山科へ通じる動脈の道でした。
今は新しい国道1号線に取って代わられ、花山隧道も通る人が少ない状態になっています。
本来は五条大橋が起点ですが、今回は京都駅から始め、山科本願寺までの道を尋ねる歴史散歩です。

夏を思わす日差しの中、JR京都駅から塩小路通を東へ向かい、三十三間堂の南側に出ました。

 
大仏変電所のあたりで坂本龍馬、北添佶摩などの土佐志士寓居跡の石碑を見つけました。
坂本龍馬とお龍さんが出会ったのは伏見の寺田屋ではなくこの辺りとのこと。

国立博物館を通って馬町へ出ました。 戦災の少ない京都ですが、
この辺りはB29の爆撃を受け死者41人、家屋の損壊142戸に及んだとのこと。
さらに渋谷街道に沿って東へ向かいます。


佐藤兄弟の碑 
平安時代後期 源義経の四天王の二人。 兄 継信は屋島の戦いで戦死、弟 忠信は吉野で
義経の身代わりになり、後に京で自害。 義経千本桜の狐忠信のモデルとして有名。

 
三嶋神社                          搖向石(ようこうせき)
渋谷街道と1号線の間のコンドミニアムの一隅にあり、子授け、安産のご利益がある三嶋神社と搖向石


1号線の下の通路を抜けて、清閑寺の手前 六條天皇・高倉天皇陵の前で記念撮影


清閑時に続く石段を上る            小督局も眺めた京都市内の風景
平安時代末期 高倉天皇は平清盛の子 徳子(後の建礼門院)を中宮(皇后)にしていたが、
小督を寵愛し、範子内親王を授かる。舅の清盛の怒りを買い小督は清閑寺で出家させられる。
小督を忘れられなかった高倉天皇は、そばに葬るよう死の直前に言い残しました。
徳子は安徳天皇を授かるが、壇ノ浦の戦いで失い、夫とは離れた大原 寂光院で眠っています。

 
花山隧道 これを抜けると山科です。

 
国道からすぐに分かれて小径をたどる。    桓武天皇の孫 僧正遍照のお墓
平安時代初期 仁明天皇の蔵人(側近)を務めていたが、天皇の崩御後出家した。
百人一首の「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」で有名
下記の花山寺(元慶寺)の座主(ざす)となり花山僧正ともいわれる。

 
元慶寺で花山天皇の話を聞く 
平安時代中期(986年) 花山天皇は藤原兼家、道兼父子の策略で出家させられ、兼家の外孫である
懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。(寛和(かんな)の変)
出家した花山法皇は、奈良時代、徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承が
あった中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、
大きな法力を身につけたといわれています。

 
山科中央公園に到着、山科本願寺の話を聞く       山科本願寺遺構の土塁を上る。    
室町時代後期(戦国時代)  蓮如は京都東山にあった本願寺で生まれました。
1457年 43歳で本願寺8代法主になると、浄土真宗の布教に努め、さびれていたお寺が隆盛になりました。
1465年 当時主流であった天台宗の比叡山延暦寺の宗徒が本願寺を襲撃し、破壊しました(寛正の法難)
1478年 越前吉崎に逃れて布教していた蓮如は山科に戻り、本願寺を造営開始しました。今度は防御のため
後世に城郭を摸した構造(堀・土塁)になっていきます。
1489年 山科本願寺の東側に南殿が造営される。                                 

 
東本願寺山科別院長福寺 蓮如上人像(左)と本堂(右)    


南殿跡

とにかく暑い一日でしたが、京都駅から山科駅まで無事に歩き通せました。
京都市内はもとより、花山隧道、山科の住宅街など普段通ったことのない道は感動の連続でした。