歴史散歩
2017-11-21
坂本周辺
琵琶湖の西南に位置する坂本を歩き、奈良時代後半、戦国時代、江戸時代前半の
歴史をたどりました。
JR大津駅から堅田行の江若バスに乗り石川町で下車、坂本城址を目指しました。
1570年6月、織田信長は姉川の合戦で、浅井、朝倉の連合軍に勝利しますが、
浅井・朝倉の抵抗はその後も続き、8月には宇佐山城を包囲し、織田方の
森可成(よしなり)を倒し、比叡山に立てこもりました。
これが原因で1571年9月 織田信長は比叡山・坂本一帯の焼き討ちを命じ、
僧侶や一般市民を殺しました。
その後、この地を支配したのが明智光秀で、比叡山の監視と
街道確保のため坂本城を築城しました。宇佐山城が山城であったのと
対照的に坂本城は湖水に面した水城でした。
バス停から湖岸に出て日吉神社の船渡御の出発点となる鳥居に向かっています。
実際の坂本城があった場所の、少し南にある坂本城址公園で説明を聞きました。
光秀は周囲の反目や反発の中、1582年6月 本能寺の変で織田信長を倒すまでの
11年間、坂本の復興に力を尽くし町衆からも愛される城主になりました。
光秀は信長を倒したものの、他の武将からの支持が得られず、羽柴秀吉との
山崎の合戦で敗れ、勝竜寺城から坂本城へ戻る途中、山科小栗栖の地で
土民の襲撃を受けて命を落としました。
光秀の娘婿 明智秀満は安土城で訃報を聞き、坂本城へ向かうが、陸路は羽柴軍に
抑えられていたため、琵琶湖の浅瀬を馬で渡り(左馬之助の湖水渡り)坂本城に
入城しました。
坂本城は堀秀政らに包囲され、秀満は明智家の重宝の焼失を避けるため、目録とともに
寄せ手の堀秀政に託し、光秀の妻子らを刺殺、城に火を放って自害しました。
光秀の娘さとは秀満と末を誓っていたが、信長の指示で荒木村重の息子、村次に
嫁がされました。荒木村重の謀反で離縁され、秀満と結ばれることになります。(左馬之助の恋)
戦国時代のロマンを感じるとともに、明智一族を再認識する機会になりました。
最澄が両親の追善供養のために建立した東南寺。 最澄が民衆に法華経を分かり易く説教した
「戸津説法」が今でも延暦寺の高僧によって続けられています。
東南寺の屋根の飾り瓦
北国街道を挟んで、北と南に酒井神社と両社神社があります。いずれも
織田信長の比叡山焼き討ちで焼失しましたが、1620年浅野長晟(ながあきら)によって
建立されました。
若宮神社
船渡御で渡ってきた神輿がここで下船し日吉大社に向かいます。
北大津湖岸緑地でお弁当を食べながら休憩。 水鳥が多く来ており、にわか探鳥会です。
聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ) 山門は坂本城のものが移築されました。
宇佐山城の戦いで命を落とした、森可成(よしなり)の墓があるということで、焼き討ちから免れました。
本殿 客殿
森可成の墓
西教寺の山門 これも坂本城から移築されたものです。
琵琶湖を背景に記念撮影
門の開口部から琵琶湖の対岸に三上山が見えます。 境内は紅葉が美しい。
バス停を横目に見て、秋色漂う田舎道を
日吉東照宮 段差の大きな石段を必死で登ると唐門が現れます。
唐門の内側には入れませんが、格子の隙間から社殿が見えます。
生源寺(しょうげんじ) 生源寺の破鐘(われがね)
生源寺は最澄生誕の地と言われています。比叡山焼き討ちでこの寺も焼失します。
焼き討ちを知らせるため、鐘をたたき続けたことにより音色が変わりました。
現在はJR叡山坂本駅の側に移されています。
生源寺近くの蕎麦屋の看板に引かれ、1/3が離脱したためここで解散となりました。