畷(なわて)とは田んぼの中のあぜ道。久我畷は平安時代の初期に、
山崎と城南宮の秋の山まで一直線に作られた道路です。
今年の4/24に、藤森から小栗栖まで明智光秀の逃走経路を歩きましたが、
その前段で 勝竜寺城から久我畷を通ったと考えられています。
西山天王山駅から東に行くのかと思ったら、西国街道を南に歩き出しました。
ポルシェの整備で有名なRUF社公認のRTC社の横を抜けていきます。
大山崎町役場の先に山陽道(西国街道)と久我畷の説明板があり、古代から
人々の往来や物流で重要な役割を果たしたという記述があります。
小泉川を渡り、名神高速に沿ってしばらく歩き、下上野南遺跡の説明を聞きました。
こんな道初めて...階段を上がると小畑川の土手でした。落合橋から城の里を抜け、
再び名神をくぐると長岡京市スポーツセンターに出ました。ここで休憩です。
スポーツセンターの北東角から、久我畷が当時の姿そのままに、畑の真ん中を約200m程
斜めに横切って残っています。
ここで記念撮影(撮影者を含めて15名参加)。
ここから北東方向にどんどん歩いていきます。
用水路の脇道も気にせずに進みます。 菱川の交差点で外環を横切り、
久我へ続く府道123号線を進みます。
久我の手前で道を左にそれると久我神社に出ました。
この辺りの御屋敷では、庭、住居、蔵の石垣の高さが変えてあります。大事な物が入っている蔵は、
洪水からの浸水を避けるため一番高くしてあるという説明を聞いています。
桂川にかかる久我橋が見えてきました。
鎌倉時代の1200年 曹洞宗の宗祖 道元がこの地に生まれたということです。
ゴールの誕生寺で記念撮影(撮影者も入れて6名になりました)
久我のバス停から京都市バスでJR長岡京まで帰りましたが、
歩き足りない2名は歩いて自宅まで帰りました。