定年退職後のシニア男性の居場所として設立されたサークルで、長岡京駅前で毎週木曜日に開催される「男の井戸端会議」とも称される定例会では、人生・社会・文化・健康・国家・生活・体験等さまざまな分野の指定されたテーマについて、全員が3分間スピーチで意見等を発表します。指定されたテーマについて考えることで脳の活性化が図られ、みんなの前で話すことでストレスの解消になり、ほかの人のさまざまな考え方や生き方に触れることで新たな発見があり自分自身の向上につながります。

シニア男性が気さくに話せ、活動でき、さまざまな考え方や生き方に出会える、「男の居場所」です。 アクセスカウンター

活動記録

会員リレーエッセイ

№33(2022年9月)

      日本人の起源は
                     是永英明氏投稿

 日本人の耳は乾型が80%で、中国・韓国人とも同じで、ヨーロッパ人の湿方型と異なっている。何でこんな違いが生じたのか興味をそそられる。細長の目は、強風に対応でき、B型の割合が少し多いのもモンゴル系と類似点があるそうだ。
 日本は島国で、日本人は独自の人種として、日本語を話し、漢字と独自に創設したひらがなを使いこなす稀な国民です。日本は、昔々は、アジア大陸と繋がっていたのが、徐々に分離した。船で移動可能な範囲であり、農耕技術伝来等色々な交流で、発展してきた。現代周りを見ると、ハーフの人は、綺麗な人が多く、遺伝子的にも優性遺伝で両親の良いとこを受け継いでいるそうだ。
 人の起原は、アフリカで旧人が50万年前、そして20年前新人が発生してアジアや、南アメリカまで到達している。陸内部と海岸沿いに移動していった。約3万年前に日本列島に住んだ人々は、ヤポネシア人と呼ばれ、ヤマト人、オキナワ人、アイヌ人からなり、土着縄文系と渡来弥生人系モデルからなる。現代科学でヒトノゲノム配列を観察すると、現代日本人は東ユーラシア人(北方中国人)にすごく近いことがわかっている。それとアイヌ人と沖縄人も近いことが判明されている。長州型は朝鮮半島の人が、薩摩型はマレー民族に似た南方系であることも分かった。ゲノム分析の結果、出雲と東北が非常に類似し、言葉もアクセントも類似しているそうだ。松本清張もこのことで砂の器に展開させている。
 ヤマトタケルは「やまとはくにのまほろば たたなずく あおがき やまごもれる やまとし うるわし」と歌を残した。現在5%の国際結婚も韓国が多く、アジアとの交流は続いているのです。日本の遺伝子や未来はいかに変化していくのでしょうか。変遷を少しでも探求し続けていきたいものです。そして国と国が相互に理解しあい、平和な時代が続いてほしいものです。日本書紀で日本の神話まで歴史をさかのぼり、古代ロマンに触れると今後の未知への道が少しずつ見えてくるといいですね。

追記
 リレー投稿は今回をもって最後の締めくくりができました。男の居場所の会員皆様の意思と糸がつながり、一つの作品が完成した達成感を感じています。あらためて感謝申し上げます。
          令和4年9月        会長是永拝



№32(2022年8月)

      ボケ防止の一方策
                     藤原 隆 氏投稿

 仕事をやめて早12年。毎日日課としてきた新聞の熟読も、目の疲れと読む意欲の減退が重なり、徐々に億劫になってきた。また、文字を書く機会もめっきり減り、今まで書けていた漢字も、思い出せず書けなくなった。必要性があれば、パソコンを使用。これでは漢字が書けなくなるのも当然である。
 定例会でこの話をしたところ、津崎さんから、「天声人語の書き写しをやってみたら。漢字を覚えるのに役に立つのでは」との助言をいただいた。
 自慢ではないが、何をするにしても長続きしない性格から、当初は始めることに躊躇するも、このまま何の対策もしないままでは、益々頭の老化が進むことへの危機感もあり、思いきって「書き写し」を実行。
 コロナ禍での自粛生活、新しいことにチャレンジすることもなく、日々を過ごしてきた私にとって久しぶりの挑戦である。しかし、やり始めると、これがなかなか面白い。漢字を覚えるという当初の目的のほかに、新たな発見を知ることになった。
 新たな発見
1. 筆順を間違えて憶えていた漢字がいかに多いかを知る。
2. 精神の安定につながる。集中力が身につく。(天声人語は603文字。毎日書き始めると1時間半が過ぎてしまう。唯一無心になれる時間)
3. 文章を覚えたり、それを書いたりすることは、脳の活性化にもつながる。
 いくら歳がいけども、日々精進すれば、脳のトレーニングにもなることを知った「書き写し」。今は天声人語書き写しノート、二冊目に入っている。まさしくボケ防止のための「72歳の手習い」である。

(天声人語とは:朝日新聞朝刊1面のコラム。
 人々の喜びや悲しみに寄り添い、時には政権を激しく批判。どの時代にあっても「いま」と向き合い、様々なメッセージを送り続けているコラムです。)



№31(2022年7月)

      日本語について
      (音声言語編)
                     水口 健 氏投稿

 言葉は、コミュニケーションをするための道具だと言われるが、言葉は、人が思考するための道具でもある。
 そして、人がどの言語の社会で生きているか、あるいは、どの言語の社会で育ったかによって、その人の思考は大きく影響を受けている。「右」「左」という概念を表す言葉のない社会で生きている人は、常に東西南北の絶対的方向で捉えて、人の向きを基準とした左右の理解が困難だという。抽象的な言葉を知らなければ、抽象的な考えを巡らすことは難しい。論理的な言葉が乏しければ、論理的に考えることは難しい。日本語の社会で育った私たちは、日本語から大きな影響を受けている。
 その日本語は、世界の数ある言語の中でもかなりユニークな言語である。
 日本語を構成する音節の種類は、古くから使われている音節では100種類足らず、新しいカタカナ語のみで使われる音節を含めても100種類余りと、世界の主要な言語と比べて桁違いに少ない。
 しかも母音(口の中で空気の流れが妨害されて発生する音を含まず、声帯で発生した振動する空気を口の中で響かせる持続性のある音)で終わる音節と、「ン」のみで構成されている。日本語の「ン」は、声帯で発生した振動する空気を全て鼻から出して発音される持続性のある音である。つまり、日本語の音節は全て声帯を使って持続的に明瞭に発音できる音節で構成されている。日本語の小さい「ッ」は、息を止めて一切の音を出していない無音の時間であり、音節を構成するものではない。日本語の「ニッポン」は、ローマ字で「nippon」と表記されるが、音節に区分する際、「nip-pon」とするのは誤りである。日本語の場合、「nip」の「p」は発音されていない。また、「ン」は音節「pon」の一部の子音ではなく、はっきりと声帯を使って持続的に発音されている独立した音節である。したがって、「ni- -po-nn」とするのが実態を表している。
 このように日本語は、音節の種類が少なく、しかも「ン」以外の子音で終わる音節がなく明瞭なため、日本語の音の響きは、日本語を知らない外国人からも聞き心地が良いと人気が高いようだ。
 一般に母国語にない音声は、聞き取りや発音が困難で言語習得の妨げになるが、日本語はその点、音節の種類が少なく、一般的に聞き取りや発音が容易な言語ということになる。
 文法の面でも、日本語には名詞などの性・格・単複、動詞の人称などが無く、とても単純だ。語順も、日本語の場合はかなり自由だし、省略も自由に出来る。日本語を学んだ外国人の中には、なぜ母国語に複雑な文法があるのか、疑問を感じる人も多いようだ。日本語は、不必要な文法上の制約がなく、文法面でも習得しやすい言語と言えるかも知れない。
 外国人を見れば日本語が分からない人という先入観を持って、英語で話しかける日本人が多いが、案外、日本語を理解している人や日本語を学習中で日本語で話しかけられたいと思っている人も多いのではないだろうか。
 外国人観光客を見かけたときは、まず「こんにちは」などと「やさしい日本語」で話しかけてみてはどうだろう。話が通じないようなら、外国語が苦手な私は「さよなら」と言ってお別れするが、外国語が得意な人であれば、それから英語などでお話しされてはどうだろう。



№30(2022年6月)

      私のヨーガ修行
                     津田叔男氏投稿

 鎌田さんご夫妻にご尽力いただいて2011年11月に発行された「老いてこそマイライフ」2集を見返すと、私のテーマはヨーガでした。63歳でした。当時は写真1から3のようなポーズができるように練習していました。

     
 写真1  写真2  写真3

 それから11年経って考えが少し変わってきました。BC300年頃にパタンジャリ大師がまとめたヨーガ・スートラという聖典があります。ヨーガのレベルを8段階に分けて、1:禁止事項、2:お勧め事項、3:体操(アーサナ)4:呼吸法、5:制感(感覚の制御)、6:精神集中、7:瞑想、8:三昧(悟り)としました。今までやってきたのはたかだか3段階目ということになります。インドのヒマラヤで修行している行者は、山岳地帯で行動するので強靭な肉体が必要です。筋力と心肺能力を高めるためにやっていることはスポーツジムのヨーガ教室とは随分違うということでした。一見地味ですが、今ヨーガ分科会でやっています。

1)アイソメトリック・アーサナ(写真4~7)
 何もしていないようですが、手と足で押し合い、引っ張り合いをして筋肉を鍛えています。

     
 写真4  写真5  写真6
     
 写真7    

 息を止めると、血圧が上がりますので息を吐きながら、もしくは声(アー、ウー、ンー)を出しながらやります。目を閉じて体の内側のどこに効いているか、声が体の中で響いているのを感じながらやります。

2)心肺能力 アイソトニック・アーサナ

     
 写真8  写真9  写真10

 両手を挙げながら交互につま先で片足立ちをしています(写真8)。 左右の体側を伸ばしています(写真9)。 両手をついて片足を後ろに伸ばし、この態勢で左右の足を交互に入れ替えます(写真10)。これを、繰り返してスピードを上げていくと、心臓バクバク、息ハーハーになってきます。

3)呼吸
 普段は何も意識せずに自動的に呼吸をしています。視床下部が肉体中の自律的機能を制御しているからです。緊張が続き交感神経優位な状態が続くと自律神経系に乱れが生じ、内臓の働きが乱れ病気の原因になります。腹式呼吸で意識的にゆっくり吐く、吸う、を行い自動から手動の呼吸に切り替えると副交感神経が優位になり自律神経系の乱れがリセットできます。リラックス効果、免疫力アップ、血行促進、インナーマッスル強化などの効果があります。腹式呼吸は自動制御の自律神経を人間がコントロールできる唯一の方法です。

4)瞑想
 少し前にマインドフルネスがブームになっていました。まだ起こってもいない未来の心配や、過去の出来事にこだわっていないで「今・ここ」に集中し、現実を客観視して周りに振り回されないようにしようというものでした。今までの生き方を振り返ってみると、どちらを選んだほうが損か得か、苦か楽か選択の連続だったような気がします。得な方、楽な方を選んできたように思います。ヨーガの知恵では「人間万事塞翁が馬」のように、私たちが感じる苦楽は、私たちの認知の仕方によって良いとも、悪いとも思われる相対的なもので本当は苦も楽もない。とにかく淡々と行為をし続けなさいというものです。現在4段階目に進めているようですが、「集中力と無執着」については勉強途上です。思考が変わると行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば性格が変わる。性格が変われば運命が変わると言われています。老い先が短くなって、どこまで行けるか未定ですが、毎日飲んでいたお酒ですが、現在休肝日が2日/週になっています。



№29(2022年5月)

      海釣りの想い出
                     行方喜一氏投稿


1 船釣りの想い出
 私は海釣りが好きです。中でも船釣りが好きで現役時、職場の同僚とよく福井県・和歌山県に行きました。行く前は釣り新聞や同僚と相談し、朝3時起又は素泊まりでしたがワクワク感であまり眠れない状態で車で約2時間ほどかけて現地に到着。漁船は10名乗りくらいの船で、約40分くらいで漁場に着きました。着いた漁場はうねりの波が2mくらいあり、海の色は濃青色で釣りどころか怖くなってきました。大丈夫かな、落ちたらまず助からない。船頭さんから、仕掛けを入れてください、深さは20メートルくらいと言われて仕掛けを入れようとしますが、船が揺れてアミカゴにえびを入れるのが大変、でも何とか投入。後は魚が食らい付くのを待つだけです。
 何のアタリもなく20分ほどして穂先に動きがあり、竿を持つとビビッと感じリールを巻き上げると、何と30㎝弱のアジが釣れました。今日は調子いいな、これはいけると思い再投入、アジが次から次へと釣れました。でも、5分もしないうちにサバの大群がやって来て釣れるのはサバばっかり。アジが来るとサバが寄ってくると言われていたが本当でした。30分程でサバでアイスボックスが一杯になり、もうサバばっかり要らんと思い、船頭さんに反して巻いている糸200mほぼ流しました。
 何か釣れるかも?と期待しながら待ち続けました。40号以上のオモリをほぼ200m流すことは根がかりもあり、手ごたえがあっても、まったく分かりません。そんな中しばらくしてリールを巻き上げました。根がかりかどうか分からないくらい重く、まるで濡れた座布団を釣り揚げている感じでした。何とか50mぐらいまでリールを巻き上げたところで、手に何か動くものを感じました。何か来てる、急いでリールを巻き上げると何とヒラメが掛かっていました。周りの皆もびっくり、大きさは約50㎝くらいあり、びっくりしました。
 沖での釣りは何が釣れるか分からない、これからは糸を流した釣りをすれば、もっと色んな魚が釣れるのではと期待が膨らみました。次に備えて包丁もいるし、帰って早速買い揃えようと思いました。本日の成果はアジ5匹(30㎝弱)、ヒラメ1匹(約50センチ)、マトダイ2匹で帰って早速、家内に調理をしてもらいましたが、ヒラメはヌメリがあって平べったいので素人には調理するのが大変、50㎝あったヒラメが手のひらに乗るくらいしか身が採れませんでした。そんな中、東日本大震災でのあの津波、怖くなり沖での釣りは行けなくなりました。でも、やっぱり船釣りは最高です。
2 筏釣りの想い出
 私はチヌ釣りが好きで、よく舞鶴の筏に行きました。友人がチヌ釣りをやっていて自分で竿も作るほどで、誘われ一緒に行くことになりました。朝3時に起き約2時間ほどかけて舞鶴に向い到着。船で筏まで渡してもらい、筏に着いたらまず団子作りから始まり次にエビを包み込み投入するする。(エビをエサ取りにとられないため)団子が底について割れエビだけになった瞬間を狙います。ところが、エサ取り(カワハギ、フグ等)が多く、波や風もあって釣りにならない状態です。筏釣りは竿の穂先動きを見て瞬時に竿を引き上げるのですが、波・風があってアタリを見るのは大変、引きがあってもタイミングを合わせるのは至難の業です。そこが面白いと言われますが、エサを取られてばかりの私には、ひとつも面白くなく筏に寝て空や周りの山を見ていると癒される景色でした。
 またエサを付け替えなあかんと思いリールを何気なくゆっくり巻き上げると、ググッとくる感触があり、何か来てると思い巻き上げると20㎝ほどのチヌが掛かっていました。ゆっくり引き上げ動いているように見えたエビにチヌが食い付いたのです。幸運です。とても嬉しかったです。
 それからは竿の先端の動きをじっと見るようになりました。だんだん魚のアタリが分かるようになって来ましたが、でも合わせるのはやはり難しい。そんな状態がしばらく続きましたが、だんだん合わせられるようになってきました。日に2~3匹(20㎝以上)くらい釣れ、たまに50㎝くらいが釣れる時もあり、引きは強く、これこそが釣りの醍醐味やと思いました。ハリスは2号で強引にリールを巻くとすぐ切れてしまうので、魚のとの駆け引きで、経験がいりますが網に入った瞬間は最高です。
 帰りの釣具店で話していたら、見せてほしいと言われ、見せたら新聞に載せたいと言われ、釣り新聞に載せてもらいました。ますます意欲が湧いてきました。大きいチヌは魚屋で焼いてもらいレモン汁を掛けて美味しくいただきました。



№28(2022年2月)

     「雲海」に魅せられて
                     森田正行氏投稿

 数年前、竹田城跡のパンフレットを見て、その写真に非常に興味を抱いた。それは、山の頂上にある城跡をすっぽりと包んだ、「雲海」の写真である。何とも言えない幻想的な写真に魅せられて、ぜひ、この目で実際の景観を見たいと思い、そしてその竹田城に登った。石垣だけの城跡なのに、確かに綺麗で、なぜこんな高い所に城を建立したのかという疑問と、同時に「雲海」を見たいという強い思いが募った。
 街中は、コロナの流行に伴い、県外への遠出の自粛で、府内ドライブが中心の行動が増えた。その行動の中で、名所、旧跡、また景色の良い所はないかと、亀岡の市役所に行った。そこに置いてあった亀岡市内のパンフレットの写真「雲海」が目に留まった。市役所の担当者に聞くと、近くに雲海の発生する場所があるとのこと。その場所は「亀岡カントリークラブ」ゴルフ場の右隣にあると確認する。
 下見を兼ねて現地に行く。そこには展望できるテラスが建てられており、見晴らしも良くここだと直ぐ理解できた。【標高412メートルの竜ケ尾山】しかし、着いたのは昼頃で雲海が出る時間ではない。そこにいたテラスの設備を点検している役人風の男性に「雲海」はいつ頃出ますかと尋ねると、11月~12月頃の朝方によく出るとのことで、確実には言えないとのことであった。今していることは、ライブカメラを設置していて、そのカメラをチェックしているところだとのこと。よくよく聞いてみると、スマホで「亀岡霧のテラス」で検索すると、現在の状況がライブで確認できるとのこと。それから常にスマホで「雲海」のライブ映像を確認することにした。
 その日が来た。朝7時頃スマホを操作し「亀岡霧のテラス」で検索すると、映し出されたライブ映像は、はっきり「雲海」と分かった。朝食を済ませ、8時過ぎから車で出かけた。老いの坂峠を通ると霧が発生しており、予感を感じる時であった。その山の麓から山道を登る途中、自転車で登る人、リュックを背負ったハイカー、短パンでジョギングして登っている人など十数人を抜き、展望台に9時30分頃に到着した。展望台近くには、車7~8台位と、そしてオートバイ、サイクリング自転車などで満杯状態である。取り敢えず、空いているところに車を止めて、イザ展望台へ。
 「ワッ凄い」の一言だった、それは、亀岡市全域に純白の柔らかい綿の絨毯を敷き詰めたようなスケールの大きな景色。これぞ「雲海」、と感動した一瞬であった。



№27(2022年1月)

       自然に学ぶ
                     本庄武男氏投稿

 私はミツバチが好きです。
 日本は南北に長い国土から、豊かな生物種を有しています。日本に生息する多様な生物種の中でも特異なものに蜂があります。
 「もし蜂が地球上からいなくなると、人間は4年以上は生きることはできない? 」と言われています。ミツバチは、養蜂に役立つだけではなく、農業の現場において、果実を実らせるための受粉も行っているからで、受粉がされないと、あらゆる果実が実らないからです。
 ところで、ミツバチを攻撃する生物は沢山あります。第1のグループとして、人間、熊、鳥、鼠など、ミツバチよりずっと大きな動物たちがいます。
 人間だけでなく熊、ライオンなどはハチミツが大好きです。しかし、熊もライオンも、ミツバチの巣を見つけてもおいそれとは近寄りません。蜜蜂の持つ毒針の恐ろしさを経験上よく知っているからです。蜂の針は産卵管またはそれが変化したものです。
 針を産卵管として使っているある種のハチは、人の体にとまっても刺すことはありません。しかし、一部体の大きな蜂ではちくりと刺します。
 カリバチ(ジガバチ、ドロバチ、ベッコウバチなど)、ハナバチ(コハナバチ、ハキリバチ、クマバチなど)は、自ら人間を刺しに来ることはありませんが、やはり素手でつかんだりすると針で刺します。
 これらの蜂の針は皮膚を突き刺すほど十分に丈夫です。カリバチの場合には、麻酔薬が注入されますので、かなりの痛みがあり、腫れることもあります。なかでもスズメバチなど一部の蜂の針に含まれる毒は、その一撃で熊をも死に至らしめる猛毒であることも知られています。
 これらの蜂は人間の生活に大いに役立つ素晴らしい存在で、しかも、蜂の方から外界の動物に積極的に攻撃を仕掛けることはありません。遠くからそっと見守っている限り、蜂は人間に対しても熊でもライオンでも平和友好的な友達なのです。
 ライオンでも熊でもそのことをよく知っているので、決して蜂をつかんだり、ましてや巣を壊したりする攻撃的行動を行うことはないのです。
 ただ、その蜂の怖さを知らない人間だけが、むやみと蜂を恐がったり、興味本位に触ろうとちょっかいを出したりし、その結果、蜂の一突きで痛い目にあうのです。
 つまり、蜂は平和を好み、働き好きで、攻撃された時にだけ防衛としての攻撃をするという平和好きな日本人に極めてよく似ています。私はこのような平和な蜂たちを見習いたいと思っています。
 人間の争いは、多くは資源の取り合いや、国土、宗教などについての長年の恨みや、他の国に引きずられてひき起こしてしまうことが多いように思われます。
 私は、日本人は本当に蜂のように平和な民族であると信じてきましたし、これからもそうあってほしいと思います。
 自然に恵まれた環境に生きる日本人として、自然から学んだ平和な生き方を世界の人々に知ってもらい、平和に暮らしていきたいと願います。



№26(2021年11月)

       阪神タイガースの春団治
                     荻野和雄氏投稿

 新型コロナウイルス感染拡大に伴う京都の緊急事態宣言が10月1日から全面解除されました。行動が規制され、閉塞感つのる毎日でしたがその中で私の楽しみの1つは、ただ今優勝を争っている阪神タイガースの活躍です。
 長い歴史の中では多くの名選手、名勝負がうまれ、数々の事件もありました。そのうちの1つのエピソードを記載します。
 セントラルリーグ、パシフィックリーグの2リーグ制になったのは1950年。
 そのシーズンに、いきなりタイガースの藤村冨美男が191本もの最多ヒットを打ちました。敗戦からまだ浅い時期です。セ・リーグの阪神タイガースからパ・リーグの球団へ移籍した主力が多い中、彼は誘惑に負けずに残留し、一層男をあげました。
 当時1シーズンで191本(140試合)を打つバッターはもうでまいと思われていました。実際、記録が塗り替えられるまで44年もの時が流れました。オリックスのイチロー選手が94年に210本の安打を記録したのです。
 川藤幸三は、講演でイチローが新たに日本新を記録した210本にまつわる楽しい話をしています。
 「皆さんは、それはすばらしいと絶賛されたでしょう? 私はねえ、実はね、211本のヒットを打っとるんですよ。イチローより1本多いのですよ。」
 会場がどっと沸きます、川藤は5秒ほどの間を置き、そして話を始めます。
 「私は211本を打つのに18年も費やしました。イチローは、はい、1シーズンで210本です。」ちなみにその後マートン(阪神)が214本、秋山翔吾(西武)が216本打っています。
 戦力外の匂いがした交渉の日が来ました。「クビだけは堪忍してください。金なんかいらん。ワシは、野球がしたいです。残してください。金はほんまにいらん。」
 記者の一人が「川藤は、春団治や」と記事にしました。
 「カネなんかいらん、酒もいらん、おなごもいらん、わしには落語があったらええんや」と言ったのは、あの浪速の春団治であります。
 後年、当時の球団社長が自白しています。「川藤がカネいらん?そんなあほな、あいつは役者やで」と・・・・
 川藤幸三は、1949年7月5日生まれ 72歳 福井県若狭出身 67年ドラフト9位で阪神に投手として入団その後打者に転向 通算成績771試合 211安打 16本塁打 108打点 打率236厘 86年現役引退後は、阪神でコーチもつとめた。今は阪神OB会長である。



№25(2021年10月)

      夫婦二人のスケッチ旅行
                     川﨑泰弘氏投稿

 60歳定年で仕事とはすっきりとおさらばし、第2の人生をどのように過ごすかを模索していた。その時、長岡京市が主催する異文化を紹介する催しを、広報誌で知った。その内容は、マチュピチについての旅のお話であった。まだ見ぬ南米のマチュピチのお話に興味を抱いて参加させていただいた。
 講師は西村博氏であった。その講師から長岡京市には「男の居場所の会」という団体があり、「小生は京都住民ではあるが参加させていただいている。長岡京市には良い団体がある。」との情報を得て、小生も「男の居場所の会」に入会させていただくことにした。
 普通の家庭の2階を貸し切った狭い部屋に、10人程度の男の井戸端会議をされていた。ある日、先輩の一人が欧州の鉄道の旅の話をされ、更に欧州に行きたい夢が益々膨らんでいた。小生はリタイア後に、趣味としての水彩画で海外の風景をスケッチしてみたいと思い、妻と共に水彩画を習い始めていた。
 折しも、娘がパリに1週間部屋を借りてパリの街を旅行したいと言い出した。その頃、パリに在住されている芸術家が、「日本に一時帰国したいので、1か月部屋貸しをする」そうサイトに掲載されていて、娘がそのサイトを見てその住人と交渉していた。1か月の部屋貸しであればOKだが、1週間はダメとのことである。そこで小生の妻に相談があり、1か月の部屋貸しで娘が借りる1週間後に夫婦でそこを借りることにした。
 妻は初めての海外旅行。小生も英会話は殆どダメ。それでもなんとかなるということでパリの生活が始まった。
 それを皮切りに、夫婦二人の海外でのスケッチ旅行が始まり、オーストリア、イタリア、チエコ、カンボジア、ギリシャ、台湾などを訪れている。展覧会も開催している。



№24(2021年9月)

   “フレイル”予防に自宅でできる健康づくり
                      岡 夏樹氏投稿

 年齢とともに知らずしらず体力が落ち、心身の機能が低下していく状態を『フレイル』といいます。
 家の中で過ごし体を動かす時間が減っているので、気づかずにフレイルになりかけている人が少なくありません。
 そこでフレイル予防に必要な『5つのカラダ力』を提案します。是非時間の許す限り挑戦してみてください。私も家に居る限り体を動かすことを実践しています。
 フレイル予防に必要な「5つのカラダ力に取り組みます。
① 心身の健康状態の確認(自分の体に目を向ける)
 フレイル予防の三本柱は、食事、運動、社会参加と言われます。毎日の生活の中に無理のない範囲で健康づくりに取り組みましょう。
② しっかり栄養をとる。
 高齢期は筋肉量が落ちやすいので、低栄養を防ぐために、たんぱく質の摂取を心がけるとともに一日十種類以上の食品を意識してとりましょう。
③ 歯と口の健康を守りましょう。(口腔ケアを心がける)
 よく噛んで美味しく食べるには、歯と口の健康が大切です。加齢により噛む力や舌を動かす筋肉が弱くなることで、誤嚥性肺炎が起こりやすくなります。
④ 運動習慣と筋力アップ(毎日コツコツ運動を)
 高齢期は足腰の筋力低下などから、歩く速さが遅くなり、立ち座りに支障が出たり少しの段差につまずいたり、転びやすく大けがにつながります。転倒や骨折を防ぐためには、足の筋力アップ運動と転びにくい環境づくりが大切です。
 健康な身体を維持するためにウォーキングやストレッチなどの運動習慣を身につけると心肺機能の向上にも効果的です。
⑤ 認知機能低下を防ぐ
 高度な運動で体を鍛えたり、趣味などで脳を活性化させて認知機能の低下を防ぎましょう。
⑥ 積極的に社会参加(地域や社会、他の人とのつながりを)
 何かしら用事を作って、できるだけ一日一回以上外出し地域社会とのつながりを持ちましょう。体や頭を使う良い機会になります。
 ◎買い物・散歩・通院
 ◎家庭での役割(ゴミ捨て・掃除)
 ◎知人・友人と会う機会を作りましょう。
 ◎月一回地域の活動に参加してみよう。



№23(2021年8月)

   七十五の手習い、そして最後の演奏

                     津﨑晴功氏投稿


 六十の手習いと言うことわざがあるが私は七十五歳の春にヤマハ音楽教室でオカリナの演奏を学ぶことにした。
目的はボケ防止、ボランティア活動や所属サークルの義務的役務も卒業し暇になったからである。
教室の同期入学は隣町の六十台の女性と二人、先生は音大卒の若いフルート奏者、褒め上手な美人だった。
私は自慢ではないが音痴で音感無し、致命的なのは音符が読めないことだ。
先生はよく我慢してくださったと思うが、褒められるので良い気になり本人は上達していると錯覚し頑張った。
その後同級生は退会、先生は出産で辞められたが次の先生にも恵まれ私は頑張った。
吹ける曲数も増えたが家族も友人も吹いてみろとか聞きたいと言った人は皆無、練習を始めると妻は二階に避難する。
 そんな中、サークルの友人が病気で入退院を繰り返すようになった。
彼は今まで幾つもの病気を乗り越えてきたので、今回も必ず元気になると信じていたが最後の入院後二週間余りで急逝、地元で最も親しかった友人を無念にも失った。
葬儀を終え近い内に弔問に行く予定になっていた。
オカリナの教則本に「千の風になって」があるのを思い出し、急遽予定を変更してこの曲を教えてもらった。
それから数日後弔問に伺い奥様や同行者の了解を得てご霊前で演奏、涙が出て譜面が見えず何度も途切れかけたが何とか最後まで吹くことができた。
遺影は笑みを浮かべ我慢して聞いてくれた。
その後コロナ禍でレッスンは何度も中断、おそらくこの演奏が私の最後の演奏になるだろう。



№22(2021年7月)

      タンザニアサファリ紀行-その1
                     澤山洋造氏投稿

1.旅のスタイル
 毎年どこかに旅に出る。
 このところ計画は自分ではしない。どこかの旅行会社主催の団体旅行に潜り込む。大体がいつものメンバー 3~4人で参加する。
 行き先や日程の選定はだいたいが友人任せ。
 行き先が決まっても下調べは面倒でほとんどしない。行き当たりばったりである。
 ところが行ってみて良かった所を帰ってから詳しく調べ直してみる習癖があり、もう一度行ってみたくなったりする。
 こういったいつもの経過で行ったのがタンザニアサファリである。今から約4年前の2017年7月20日から27日の八日間。

2.出発から現地到着まで
 関空~ドバイ、ドバイ~ダルエスサラーム、ダルエスサラーム~キリマンジャロ空港。2度の乗り継ぎを経てタンザニアのキリマンジャロ空港着。ダルエスサラームからキリマンジャロ空港間はプロペラ機。
 関空発からキリマンジャロ空港到着までの所要時間約25時間。うち飛行機搭乗時間は17時間、乗り継ぎ時間8時間。
・ダルエスサラーム空港(タンザニア)でのスーツケース受け取り
 参加10名中9名のスーツケースは普通に出てきたが残り一人のスーツケースがなななか出てこない。添乗員のソノダさんはこのあたりの空港ではこんなこともあると言って落ち着いたもの。荷物の回転レール脇で待つこと約30分、やっと出てきた。
・ダルエスサラームでタンザニアの国内線に乗り換えるのだが段取りは日本人感覚では相当悪い。
 手荷物とスーツケースの数を空港係員とチェックカウンター員で数えるがうまく勘定できない。スーツケースの重量を500㎏ハカリで測定していくが手動でいちいち測って重量オーバーのチェックをするのだが随分と人手がかかって手間なことをしているなという感じ。
・手荷物、スーツケース
 ともに二回ずつチェックされる。一回目のところはいい加減なようであったが二回目のチェックは細かかった。靴は脱いで、ベスト、ズボンベルトは外して。
・タンザニア国への入国カ-ド
 15項目程度記入項目があったが、日本などでは適当に書いてさっと提出してOKであるが、ダルエスサラームでは全項目忠実にチェックされた。生真面目な入国審査官にあたると慎重なパスポートチェックなども加わってなかなかはかどらずいらいらしてくる。指紋をとられてなお質問を受けている人もいた。
 このように2回も同じようなチェックを実施するのはイスラム圏の国ではよくあることだそうでイライラしてはいけないとのこと。

3.タンザニアという国
(1) 赤道が通るケニアの下(南側)にあるインド洋沿いの国。気候は雨季と乾季に分かれる。7月は乾期の前半。
 面積は日本の約2.5倍(94.5万㎢、人口は日本の約47%(5900万人)。
 第一の都市はダルエスサラーム(150万人)、第二の都市はムワンザ(71万人)。続いてアルーシャ(42万人)、ドドマ(41万人)。法律上の首都はドドマ。
・言語はスワヒリ語(公用語、国語)と英語(公用語)。
 現地人でも英語を話せる人は結構多い。サファリは各5人ずつ2台のサファリカーに分乗したがサファリドライバー二人ともスワヒリ語と英語が話せた。現地人同士はスワヒリ語で、添乗員との会話やツアーメンバーへの説明は英語。
・宗教
 イスラム教徒35%、キリスト教徒35%、その他土俗宗徒30%。ダルエスサラームなど沿岸都市はイスラム教徒、内陸部はキリスト教徒が多い。
(2) 治安
 現地(キリマンジャロ麓~アルーシャ~ンゴロンゴロ~セレンゲティ)で不安を感じることはなかった。ただし、われわれサファリツアー一行は通常のツアーにあるような市街散策などの観光は全くなかった。また宿泊したロッジは、周囲は木々あるいはしっかりとした壁で現地と一線を画している。それぞれの宿泊ロッジ入り口では銃を持った門衛が入場をチェックする。また、宿泊建物の周りは銃を持った私兵が巡回をしているのが常であった。はじめはどういうことかわからなかったが我々をガードしているのだとわかった。宿泊ロッジ内と周囲の現地との環境差は歴然としている。特にレイクマニヤラのロッジは、ロッジ内とロッジへ通じる道路周辺の市街地は全く別世界。欧米人の持つ優越感のような雰囲気がロッジ内にはあって複雑な気持ちがする。この現地市街地は我々の感覚ではバラック街、スラム街のような町並みに見えるが街はにぎやかな話し声で活気にあふれ、汚れたゴミも少なくすさんだ雰囲気はない。
(3) 気候
 アフリカはごく沿岸部を別にすると一般に1000m以上の高地が多いとのこと。
 行った7月は現地では一年で最も寒い季節で、キリマンジャロ麓~サファリした地域の人はほとんどが長袖だった。実際サファリした地域の標高は1500~2500mで大体が2000mの標高。昼間は28~30℃になるが夜は18℃くらいで湿度も低く少し寒い。朝夕は快適な気候。薄地の長袖でちょうど良い。
 宿泊したどのロッジの部屋のベッドにも蚊除けの蚊帳が取り付けられていたが蚊に刺されるどころか蚊が見当たらなかった。ただこれはこの時期(寒い季節)のことであり暑い季節(1~3月か)は別。
(4) タンザニア人気質
 俄タンザニアファンになった。
 タンザニアのことを知る機会は多くはないがタンザニア人を主役にした本は出ている。
 小川さやか著「チョンキンマンションのボスは知っている」 2019年刊
 小川さやか著「その日暮らしの人類学」        2016年刊
 いずれもノンフィクション。
 「チョンキンマンションのボスは知っている」は大宅壮一ノンフィクション賞や河合隼雄学芸賞をとって話題になった。
 生き方の参考にもなって面白い。

                    その1 終わり



№21(2021年6月)

     この頃思うこと
                     邨山捷三氏投稿


 四月の半ばにコロナウイルスに感染(濃厚接触者との判定。当地での私の行動を保健所が詳細に聴取、濃厚接触者なしと結論)。症状もないため、危機感もなし。保健所の担当者が、「貴男は高齢者であり、しかも基礎的疾患があるため、即入院の要あり。」として、手配を進めてくれたが、入院まで二日を要した。医療現場の大変さはテレビ等で承知はしていたが、まさか当地までもとは思っていなかった。幸い当方の症状は極めて軽く、入院はしたものの、特段の治療・投薬もなく、十日間を過ごすこととなった。ただ入院中は面会禁止のうえ、病室から出ることも不可のため、退屈このうえなく、テレビを見るか、文庫本(入院時持参)を読んで過ごすしかなかったのが、一番つらいことであった。
 ヒマな時間が多いため、つまらぬことどもが頭を巡り、問題意識ばかりが高まり、一人ブツクサ言っている自分に驚いた。例えば、「コロナ問題は一年以上前から。なのにワクチンは未だ十分になされていない。なぜか。」、「緊急事態等の宣言は発してはいるが、営業等の制約をかけた業種への補償は不十分では。」、「オリンピックは、やるの・・・。」といったこと等、数えあげればキリがない(十日間の密室生活故か、ヒマな凡人はあれこれ問題のアラ探しで一日を送るしかなかったのが実情)。退院後は女房殿の意見に従い、二週間おとなしく過ごし、なんとか自由行動が許されたといったのが現状か。
 話は変わるが、オリンピックはどうなるのだろう。後二か月ほど、時間的余裕はない。国内のコロナ問題は、変異株の活発化もあって、収束の見通しはない。中でも医療現場の問題は無視し得ず、早急な対応が求められている。
 一方、オリンピックのため、医療関係者の確保が急務と政府はいっている。国民を放置して良い筈がない。「オリンピックやめようよ。」誰が言いだすか(言わないかも知れない)。注視しよう。



№20(2021年5月)

     「新緑」と「深緑」
                     大塚尚武氏投稿


 広辞苑によりますと、「新緑」は晩春や初夏のころの若葉の緑、「深緑」は濃い緑色と記されています。
 京都は桜も紅葉も美しいと多くの人が言います。また、その名所も多く、嵐山、醍醐寺の桜や円山公園のしだれ桜等、名前を挙げたらきりがありません。一方、永観堂、東福寺、真如堂等、紅葉の名所もいっぱいです。もちろん京都の桜は美しく、名高いものも多いですが、私は桜は東京、京都は紅葉が似合う街だと思っています。
 日本は昔から四季により咲く花が変わり、まだ寒いころの梅・桃、暖かくなり始めの桜・ツツジ、日中は少し汗ばむころの牡丹・菖蒲の順に咲き、我々の目を楽しませてくれ、季節の移ろいを感じさせてくれています。これらの諸花が散り、初夏のころになると野山の木々は新緑に染まり、我々の心を和ませてくれます。
 私は浮き浮きする桜の季節やわびしい感じの紅葉の季節以上に、「新緑」の季節が一年で一番好きです。例えば京都・洛北を走る叡山電鉄鞍馬線の市原~二ノ瀬駅間のいわゆる紅葉列車の乗客は、秋の紅葉の時期の方がはるかに多いですが、私は初夏の青紅葉のころの沿線の風景の方が風情があって好きです。また、近くの光明寺の参道の女坂の新緑時の青紅葉もひっそりとではありますが、秋の紅葉のころより凜と咲いているように私には感じられます。
 木々の緑の景色も季節の移ろいとともに、最初のころの初々しい新緑から竹やお濃茶の色のような落ち着いた「深緑」に変わります。私の住む乙訓地域は西山が近いせいか、また、深緑の代表格の竹林にも恵まれ、「新緑」から「深緑」への変化を間近で感じることが出来ます。そのうえ散歩時、竹藪からはウグイスの声も聞こえてきて、あらためて長岡京市に住む幸せを感じています。



№19(2021年4月)

      健康で在り続けるために!
                     橋本勝司氏投稿


 私は今年2月で79歳になりました。昔、子供のころ、60歳を過ぎた人は年寄りに見えておじいさんと呼んだりしていましたが、いま自分が79歳を過ぎても他人からおじいさんと呼ばれたこともなく、また自分も老人と思わないし、今も元気にシルバーの仕事や家庭菜園等で、働き、遊んでいます。働くという字は人が動くと書くとおりで、今も元気な要因は、身体を動かして働いているからだと思います。
 格言で「幸せとは、仕事をすることだ。社会に役立ち、なおかつ報酬まで貰える。」を目にしたことがありますが、この格言のように幸せを感じています。
 高校卒業後、神戸港で輸出品の積込み数を確認するチェッカマンで2年働きました。昭和35年頃は、戦後の経済発展で神戸港では毎月25日から月末ぐらいまで、毎日深夜まで貨物船への積込み作業が続く状態で(2~3万トンクラスの貨物船でも1日24時間で何10万円の停泊費のため)、そのぶん給料も他の高卒の倍近くありましたが、その後、海外の貨物船がコンテナ船に代わり、港湾での仕事も減ってきたので、大阪の日立の家電製品の卸会社に転職しました。
 昭和37年頃は家電製品が飛ぶように売れましたが、その後、日立製作所から日立家電販売へと販売部門の整備にともない地域の販売会社を整理し、国内販売は大型店・量販店へ重きを置いて、担当地域制に変化しました。40歳の時に担当地域の量販店から「我が社に来ないか。」と打診があり、今後も伸びそうなその企業に転職しました。
 その家電量販店も、地域量販店から合併等で全国展開する大型量販店へと大きく成長しました。私も60歳の定年まで大阪府で4店、兵庫県1店、京都府で2店の店長を経験しました。そのうちの2店は単身赴任で、どの店舗でも午前9時には入店し午後10時に退店、勤務時間に通勤時間も含めると16時間ぐらいで家に帰るのは寝るだけでありましたが、どの職場でもその仕事が好きでした。また若い社員とも仲間意識を持って、仕事の時は厳しく(成果主義、手当のため)も、遊びも最後まで付き合う主義で、自分の思うようにして結果を出してきました。当時の仲間からは、今も遊びのお誘いがあります。
 定年退職後も、阪急電鉄の駅員を3年、京都五条のシティーホテルの駐車場係で10年、今も小学校の用務員の仕事をしています。
 今まで仕事が嫌になったことは一度もありません。いつも楽しく働かせてもらいました。
 ただ、今まで、家電量販店で季節の変わり目に店舗の模様変え等のため徹夜したことも年2回ほどありましたし、阪急電鉄の時も24時間勤務(途中8時間の休憩あり)、シティーホテルも夜勤がありました。
 時代に合わせ、いろんな仕事をしてきましたが、良い思い出しかありません。
 いま現在も、仕事の時は1万1000歩ほど歩き、1週間に2~3回勤務しますから、1日平均7000歩以上は歩いています。歩き以外、自転車でも色んな所へ、また、たくさんの買物の時も自転車で走っています。
 今までの人生で自分の好きなように生きてこられたのは、やはり家内のお陰であると思います。28歳から、家のことはすべて任して仕事だけをしていれば済みました。また毎日の料理も健康のことも考え、いつも美味しい料理を当たり前のように作ってくれ、私より頭も良く、趣味も多く、詩吟、書道、折り紙、洋裁、お菓子作り、パン作りと、忙しく動き本当に素晴らしい家内だと思っています。
 私も今後は家の手伝いもして、家内も元気で楽しく健康で長生きしてもらうように願い、心がけています。
 2月の寒い日に健康のため、電動自転車で善峰寺に行ってきました。そこに寺の説法が書いてありましたので、皆様にも御紹介して最後とします。
一、人の短を 言うこと勿れ
一、己の長を 説くこと勿れ
一、人に施しして 思うこと勿れ
一、施し受けて 忘れること勿れ
                ありがとうございました。



№18(2021年3月)

     新型コロナウイルスについて
                     松岡 登 氏投稿


● 通いの場を開催するために
 「3つの密(密閉、密集、密接)を避ける」、「人と人との距離の確保」、「マスクの着用」、「手洗い」が大切です。
 自分自身の健康管理にも十分配慮するようにしましょう。

● ~感染拡大を防ぐためのポイント~
 ・ 毎日、体温を計測し、体調を確認しましょう。
 ・ 体調の悪いときは休みましょう。
 ・ 症状がなくてもマスクを着用しましょう。
 ・ こまめに、水と石鹸で丁寧な手洗いを心がけましょう。
 ・ 1時間に2回以上の換気をしましょう。
 ・ お互いの距離は、互いに手を伸ばしたら手が届く範囲以上空けましょう。
 ・ 会話をする際は、正面に立たないように気をつけましょう。

● ~体操など身体を動かすとき~
 ・ マスクを着けて運動する場合は、無理をせず、早めに休憩を取りましょう。
 ・ 熱中症予防のため、こまめに水分補給や室温調整をしましょう。

● ~食べたり、飲んだりするとき~
 ・ 座席は、横並びで座るなどの工夫を行いましょう。
 ・ 料理は個別に分けて、茶菓は個別包装されたものを選びましょう。
 ・ 食器・コップ・箸などは、使い捨てにしたり、洗剤で洗いましょう。



№17(2021年2月)

     グラウンド・ゴルフの紹介
                    佐々木武次氏投稿


 グラウンド・ゴルフとは、
 【いつでも・どこでも・いつまでも出来る生涯スポーツである】

 グラウンド・ゴルフの特徴
・ グラウンド・ゴルフは、ルールが簡単で、誰でもすぐに取り組むことが出来、海外にまで普及発展している。
・ 誰にも勝つチャンスはある。グラウンド・ゴルフは年齢・性別・体力・運動能力などがプレーの結果に大きく影響することがないように、各ホールの距離・用具・ホール・ポストなどを工夫し開発されたスポーツである。
・ 初心者ほど多くのプレーができる。
・ 自己責任でプレー:グラウンドゴルフは審判員を必要とせず、自分自身が自分自身を審判する。
・ どこでもできる:規格化されたコースを必要としない。目的・環境・技能などに応じ運動場・河川敷・公園・庭・等
・ 準備は簡単:スタートマットとホールポストを設置するだけ。
・ 時間制限がない。
・ プレーヤーの数に制限がない。

 グラウンド・ゴルフのマナールール
① プレーヤーは、自分のプレーが終わったら、速やかに次のプレーヤーの妨げにならない場所に行く。
② プレーヤーは、同伴のプレーヤーが打つときは話したり、ボールやホールポストや後ろに立たない、また、自分たちの前を行く組が終了するまで、ボールを打たない。
③ プレーヤーは、自分の作った穴や足跡を直していく。
④ ゲームは、所定のボールを決められた打順に従ってスタートマットから打ち始め、ホールポスト内に静止した状態{トマリ}までの打数を数えるものである。
⑤ 用具は、クラブ・ホールポスト・スタートマットは定められたものを使用しなければならない。
⑥ プレーヤーはゲーム中、いかなる打球練習を行ってはならない、反則1打付加。
⑦ プレーヤーは打つときに、物的・人的な援助やアドバイス、風雨からの防御をしてはならない、反則1打付加。
⑧ プレーヤーは、打ったボールが長い草や木の茂みなぞの中に入ったとき、ボールの所在と自己のボールであることの確認すること以外、草を刈ったり、木の枝を折ってはならない、反則1打付加。
⑨ プレーヤーはボールを打つとき、クラブのヘッドで正しく打ち、押し出したり、かき寄せたりしない、反則1打付加。ただしカラ振りの場合は打数にかぞえない。
⑩ プレーヤーは、打ったボールが紛失したり、コース外に出たときは1打付加し、ホールポストに近寄らないで、プレー可能な箇所にボールを置き再開する。
⑪ プレーヤーはプレーの妨げになるボールを、一時的に取り除くことを要求することができる、取り除くのはボールの持ち主であり、その際ホールポストに対して、ボールの後方にマークをして取り除かなければならない。
⑫ プレーヤーは、打ったボールが他のプレーヤーに当たった時は、そのままボールの止まった位置からプレーを続ける、当てられたプレーヤーは元の位置にボールを戻さなければならない。
⑬ プレーヤーは、打ったボールが動いている間は、ボールを打ってはならない。風によってボールが動いたときは、静止した場所からプレーをし、動いてホールポストに入った場合は(トマリ)とする。
⑭ プレーヤーは、打ったボールが1打目で(トマリ)ホールインワンは、合計打数から3打差し引く。
⑮ ゲーム中の判定はプレーヤー自身が行う、ただし判定が困難な場合は、同伴プレイヤーの同意を求める。
⑯ 標準コースは、50m・30m・25m・15m 各2ホールの合計8ホールで構成する。



№16(2021年1月)

      サロン立ち上げの私の想い
                     渡辺節郎氏投稿


 エスリード長岡天神に入居して早16年目になります。入居者175軒の内、105軒で自治会を立上げ、私も役員の1人として「マンション内の顔見知りを増やそう」として色々な活動をしてきました。しかしマンション特有の閉鎖性と個人情報の壁のためか、会員は増えず逆に主催行事の参加者も減少しています。
 住民の高齢者の中には元気で働いておられる方、いっぽう身体の不自由な方・介護サービスを受けておられる方・独居で人の手助けが欲しい方等、いろいろハンディをお持ちの人もおられます。
 私も今年で80歳になりました。まだまだ若いと思っていましたが、最近は少しずつ体力気力とも減退してきました。ペットボトルのキャップや瓶の蓋が空けにくい、歩いていて良くつまずく、人の名前が直ぐに出ない等、記憶力が減退、物忘れも多く認知症を心配しています。
 でも私は定年後、今日まで20年間、福祉・環境関係等、色々なボランテイア活動をしてきました。そのひとつに私を楽しませてくれた「男の居場所」の会があります。入会して17年、中身は老人会と変わりませんが自分をさらけだして語る仲間との会話が実に楽しいのです。平均年齢78歳43名の会員が週1回バンビオに笑顔で通っています。たかが老人の居場所の会ですが人を引き寄せる魅力があります。
 しかし私は以前から80歳になったら退会して地域で居場所を作ろうと考えていました。その想いを9月27日に実現させました。「エスリードサロン」を立ち上げ、代表の世話役になりました。「人生100歳時代」を迎えエスリードの高齢者が楽しく元気で長生きできるために何が必要か何が出来るか、皆さんと一緒に考えていくサロンにしたいと考えています。
 先ずは健康寿命を伸ばすことです。誰しも幾つになっても自分らしく生き生きと暮らしたい願望はあります。しかし加齢と共に心身の機能は低下しますが、毎日の健康管理や生活習慣に気を配ることで、いつまでも若々しくより元気な生活を送ることが出来ます。行政等関係機関の指導とサロンの仲間同志で意見交換しながら、あせらず努力すれば健康寿命は伸ばせると思います。今は共生の時代で男女共同参画の社会です。女性も男性も個人的なハンディがあってもお互いがささえ合い助け合っていけば、エスリードマンションはきっと長寿のマンションになることを信じています。これがサロンの役割だと思います。
 元気で生かされている今、高齢のハンディはありますが80歳はまだ若い。残されたこれからの人生、社会から孤立しないで明るく楽しく愉快に生きて行くために、サロン会員1人1人がお互いに肩書もなく対等な人間関係を保ちながら新しい繋がりと絆を創っていきます。初めは井戸端会議で良いと思います。その中で共通の趣味や嗜好を持った方々が、仲間を募って教室を作って活動していく。またボランティア活動や社会活動を行うことで1人1人の役割が自然に作られ、それが生きがいに繋がると思います。思う通り行かなくても良い、よぼよぼでも良い。身体を動かすことによって私たちは「豊かな超高齢社会」の実現の一助になることを願っています。



№15(2020年12月)

      2年前の死の病の大手術から
      九死に一生を得て

                     西川靖夫氏投稿


 思い返しますと、私は平成29年(2018年)9月14日(金)の午後4時半頃、当日は旧職場の「タワー俳句会」を終え阪急四条烏丸駅で帰りの特急待ちのためベンチに座っていました。句会の資料を何となく手にしていたのは覚えているのですが、何の前触れもなく突如意識不明となり、病院の記録によると、ベンチに座っていた隣の男性の膝に倒れかかり、周りにはかなりの人がいたため大騒ぎとなり救急隊がすぐに駆け付け府庁前の第二日赤に救急入院させたそうです。倒れた時は心肺停止状態で救急隊が蘇生のための緊急措置を取ったとのことです。私が意識を回復したのは、6時間の緊急手術を終えて2時間後の真夜中(午前1時頃)、集中治療室の中でした。一瞬私には何が起こったのか判りませんでした。
 集中治療室には3日間入っていました。全身(くだ)だらけで身動きも出来ない状態でしたが、特に痛みはありませんでした。妻と東京や西宮から駆け付けてくれた3人の子供たちの中の長男の話では、担当医から「まず助からないと思うので覚悟しておいて欲しい」と言われていたそうです。私の場合大動脈の裂けた(2か所)箇所が心臓と脳を結ぶ上行大動脈という最も危険な所であったため、過去の経験から執刀医も九分九厘助からないと即断したとのことです。私の身に何故か奇跡が起こったのです。通常これ位のダメージを受けると、一命は取り止めても重篤な後遺症(寝たきり等)が残るそうですが、回復は医師も驚くほど早く、9月末には抜糸し10月に入ってからはリハビリに専念、10月10日には自宅近くの済生会病院に転院しそこでリハビリを集中して行い、10月19日には何の後遺症も無く退院しました。その後済生会病院には2か月に1回通って診察を受けた後薬をもらっており、第二日赤には年に1回精密なCT検査を受けるのみで、何の異常も見られず現在に至っております。
 せっかく助けてもらったこの命、粗末に扱ってはならないと、以前にも増して良き生活習慣を送っていこうと努めているところです。もう大丈夫とは思っても明日、あさって何が起こるか判らないとの覚悟は常に抱いております。人工血管を体内に入れたままであるのは確かなのですから。今でも人から「もうよくなったか」と聞かれるとドキッとします。



№14(2020年11月)

    絵を描く趣味について
                     岸本裕次氏投稿


 私は学生時代に、婦人服のプリント柄のデザイン制作を職業とする飲み友達が出来、京都河原町今出川にあった「現代美術研究所」に、絵画の道に誘われて入所しました。この研究所の先生は保治欽也さんで、抽象画の「行動美術協会」会員の先生でした。
 そこで絵画の基本を教えていただくとともに抽象画の基本も教わり、当時の若者の仲間と「現」という抽象画グループを作り、“ポロック”( ジャクソン・ポロックは、20世紀アメリカの抽象表現主義の代表的な画家であり、彼の画法はアクション・ペインティングとも呼ばれた。)のような絵の制作までして、「芸術は爆発だ」と展覧会を開催し、青春を謳歌しましたが、社会人になってからは絵の制作をやめてしまいました。
 定年後、長岡京市の絵画サークル「彩画会」に入所して絵を描き始め、100号の抽象画を友達のアトリエで制作し、京都市立美術館(現京都市立京セラ美術館)で開催された「関西行動美術展」に約10年間出展させていただき、「男の居場所」の会の友人も来てくださり、帰りに河原町四条でビールを飲むのが習慣になったこともありました。旧京都市立美術館(現在京都市立京セラ美術館)は1933年(昭和8年)に開館した名建築で、自然光を取り入れた素晴らしい展示室で、私はすごく気に入っていました。
 10月2日に新しい京都市立京セラ美術館に行ってきました。表玄関の風貌は前のままでしたが、エントランス・裏庭は広くガラリと変わって現代的になりました。展示室は、前の雰囲気を残しており良かったです。
 現在は、「彩画会」もやめ、友達のアトリエで月2~3回、アクリル・透明水彩絵具の両方を使った8~10号の絵の制作を、他の2人の友達と楽しんでいます。
 また、似顔絵制作に凝ってしまい、社協の個人ボランティアにも登録しています。新型コロナ時代には、対面して似顔絵を描くことは避けるようで、似顔絵の作成は無理です。写真による作成の方がベターです。
 新型コロナ時代に絵を描く趣味は、大変良い趣味に当てはまり嬉しく思っています。



№13(2020年10月)

    「昭和」は、わたしの故郷(ふるさと)である
                     岡﨑勝治氏投稿

 7年前から町内の敬老会「うたの広場」で、童謡・唱歌や昭和の流行歌など懐かしい日本の歌を、みんなで一緒に楽しく歌ってきました。毎回、2ヶ月前から選曲に取り組み、音楽ファイルや歌詞カードの作成など、これらの準備作業も私にとっては楽しいひと時でした。
 ところが今年は、1月の「新年会」はやれたものの、その後のコロナ禍により、4月の「総会」と9月の「敬老の集い」が共に中止となりました。そこで、ラジオ・テレビ局がやっている過去番組の蔵出しに習って、昨年「総会」時のプログラムを下記に掲載します。音楽無しの曲名だけですが、懐かしい歌を選曲していますので、小さく口ずさんで楽しんでください(大きくは駄目です、笑)。
 さて、『昭和恋歌』:詞・阿久悠 曲・谷村新司 唄・小林旭 馴染みのない歌ですが、作詞の阿久悠は次のように語っています。…昭和には確かに存在して、今存在しない、風景、人間、心、それを思い出します。もしも、美空ひばりがまだ生きていて、そんな昭和を歌ったら、と一編の詞を書きました。…
 最後に、歌詞の中に次のフレーズが出てきます。このフレーズを歌うとき、いつも、私の胸が熱くなります。
 あああ あああ  一日一日遠くなる わたしの時代が遠くなる
 そして あのこも あのひとも

                       2019.4.13 『竹友会』総会
【懐かしの歌謡曲・昭和を回想する ③】 ━特集 故郷(ふるさと)━
 ≪唱歌≫〈歌いましょう〉
 ・朧月夜(おぼろづきよ)(大正3年) ・故郷(ふるさと)(大正3年)
 ≪歌謡曲≫
 (聴きましょう、歌いましょう)
 ・赤い夕陽の故郷    三橋美智也 (昭和33年)
 ・ふるさとのはなしをしよう 北原謙二 (昭和40年)
 (歌いましょう)
 ・南国土佐を後にして  ペギー葉山 (昭和34年)
 ・北国の春       千昌夫  (昭和52年)
 (歌いましょう 「うたの広場」定番・ラストナンバー)
 ・サライ        加山雄三・谷村新司 (平成4年)
 ・川の流れのように   美空ひばり (昭和64年・平成元年)
 ・昭和恋歌       小林旭   (平成13年)



№12(2020年9月)

       日本人と英語 (風間氏に応えて)
                     長野克彦氏投稿

 英語は今日、母語として5億人、(準)公用語も含めると20億人(4人に1人)が使用する世界共通語として認知されています。
 ところが日本人(特に我々高齢者)にとって英語は言葉としてより、進学のための学科としての認知度が高いのではないでしょうか?
 このギャップは、イングリッシュを意味する和製漢字としての英語が誕生した明治初期から既に潜在していました。当時の一般日本人が英語を使う必要性も機会もあろうはずがなく、学校でその後教えることになった英語は実情に合わせ「言葉の習得」としてではなく、「英語に関する知識を習得する学科」として日本独自の意味付けを与えました。
 さて、この独特の英語教育に初めて公式に異議が唱えられたのは、言葉としての必要性も機会も熟してきた1974~5年のことです。ご記憶の方もおられると思いますが、政治家・平泉渉氏と大学の英語教授・渡部昇一氏の「実用」か「教養」かをめぐる、一世を風靡した「英語教育大論争」です。議論は平行線のまま両氏とも故人となりましたが、不毛(?)の議論はいまだに繰り返されています。風間さんからも指摘がありましたように、おそらく永遠の課題でしょう。
 僭越ながらここで私個人の非公式な見解を披露して閉めたいと思います。
 私自身はどちらかといえば「実用」英語派です。「教養」英語の教育者には今まで有意義な仕事をされてきたと敬意を表しますが、グローバル化が加速する現在、実用的な英語を使用する環境の変化への対応が急務だと思われます。
 「学の独立」とは言え、教師にはやはり、生徒・学生のことを考えると卒業後可能な限りお呼びのかかる人材に育てる責任があると思います。グローバル化が進む中、需要サイドが求める学生は英語に関する知識保有者よりイングリッシュの使い手です。
 そこで私の結論は
1、「使える英語」を改めて”イングリッシュ”の名称に変更し、小学校6年間必須科目として(”イングリッシュ”を教える有資格者が育つまでは)ネイティブまたはバイリンガルが担当する。
2、中学高校は”イングリッシュ”と”英語”の二本立てで、両科目とも選択制とする。
 以上により、生徒個人の満足度もやる気も上がり、クラスは切磋琢磨による活性化が図られ、ビジネス界は有用な人材が得られ、ひいては国の国際競争力強化へと繋がるのでないでしょうか。
 皆さんどう思われますか?



№11(2020年8月)

     私の長岡天神
                     橋本和也氏投稿

 いま、長岡京市・向日市・京都市の接点のようなところに住んでいる。小さい頃は京都の北大路烏丸の近くであった。
 小学1,2年の頃「長岡天神さん」に遠足があった。終戦直後の超満員の市電を乗り継ぎ、大宮から新京阪に乗り換え、ずいぶん遠くに行ったような気がした。が、そこはなんと“夢のような、天国のようなところ”で、その後この強烈な印象を大事に心の奥にしまっている。なんと一面色とりどりのチューリップの園であった。少ししゃがむと西山から手元まで花だらけのまさに夢の国であった。
 その後は神足で学生アルバイトぐらいで、学校も勤めも京都、所帯も三宅八幡さんの近くでもった。永くは東向日駅より南とは、ほぼほぼ無関係な生活であったが、退職後しだいに関わりができ、次男が天神さんの近くの研究所に勤めたり、ガラシャ祭りで賑わう物集街道沿いのお嬢さんと結婚。孫も可愛い。自分はバンビオの「男の居場所」の会で似た世代の人達との話が楽しみ。一時期は夫婦で3階で催されるダンスパーティに参加したりと北の京都より南の長岡京市の方が近い存在となってきているのだが、一つ関わらないことがある。
 あの「天国のようだったチューリップの園」が何処にあって、今どうなっているかの探索である。これからも長岡天神さんへの遠足の思い出を大事に心にしまいこんで次の世に持っていくつもりである。



№10(2020年7月)

     英語教育について
                     風間謙治氏投稿


 今年の4月から小中高校での英語教育が大幅に変わることになっていたのがコロナで肩すかしになってるようですね。大体、文部省の時代から生徒に本気で英語を覚えさせる気が有ったのか疑わしいものだと私は思います。
 辞書をひくのに時間と手間ばかりかかって、それでも一語一語の意味は分かっても文の意味は解らない場合が非常に多い。使ってる教科書の参考書(いわゆるサボ)を買っても何か当てにならないときがある。
 だいいち覚えるべき単語の数は馬鹿みたいに多いのに混乱させるようにカタカナ語(和製英語)が一般には益々増えて来ている。これを先ず何とかすべきである。例えば野球でもフォアボールなどは英語ではウォーク(walk)と言うらしい。歩いてでも一塁へ行けるからだろうか。デッドボールも(hit by pitch)と言うらしい。タッチアウトは tag out である。誰かがエラーをして落ち込んでたらドンマイと言ってるが正確には Never mind.と言うらしい。チャレンジも日本人が使ってる意味では使わないそうです。数え上げたら切りがない。
 それから、中学校の教科書にも間違った英文が書いてあるそうです。それも、間違いと分かってても書いてあるそうです。例えば普通は過去完了形を使うところを過去完了形は中学校では教えないことになってるので無理を承知で他のあまり言わない言い方にしてあるというのです。
 「こちらでお召し上がりですか?それとも、お持ち帰りですか?」は"For here, or to go?"と簡単に言えるのに低学年では教えない。なぜかというと文法的に変則だからというのです。欄外に但し書きを付けておいたら良いのと違いますか?どうも馬鹿げていますね。
 中学生のとき Jack and Betty という教科書を使った方が多いはずですが、始めに This is a pen.とか I am a boy.という文が出てきましたね。誰が見てもペンや少年(男の子)はいちいち言わなくても分かります。よっぽど変わった形のペンとか、女の子と間違えられそうな男の子の場合しか言わない文だと思います。それよりも Freeze ! とか命にかかわるような言葉を教えておいてもらった方が良いのではないでしようか?
 皆さんどう思われますか?



№9(2020年6月)

      
コロナショック
                     藤田雄司氏投稿


 二月以来、世界はコロナ一色と化した。
 スポーツも芸術も街のにぎわいもなくなり、精気を失った世界は白黒映画のようだ。こんな日常が来るとは夢にも想わなかった。
 「食いたいものを食い、飲みたいものを飲み、言いたいことを言い、やりたいことをやる」と、うそぶきながら呑気に老後を楽しんできた。
 しかし、高齢で基礎的疾患の持主は、コロナウイルスに感染すれば重症化し、死亡率も高いとメディアは不安を煽る。悲しいかな自分もその一人であることは間違いないようだ。
 クラスター、ステイホーム、濃厚接触、ソーシャルディスタンス、PCR検査、医療崩壊、感染第二波等さまざまなキーワードが飛び交い、コロナウイルス辞典が必要なほどである。
 対ウイルス戦争に打ち勝つ手段として、我々が手にしているのは、「検査」「隔離」「封鎖」だが、それらは確実な武器ではない。ウイルスに打ち勝つための確実な武器と言えるのは治療薬やワクチンであるが、これらはまだできていない。あるのはマスクだけである。
 ふと、巨大米軍に竹槍で立ち向かおうとした昔の日本の姿が目に浮かんだ。



№8(2020年6月)

      
以前から気になっていたことの一つ
                     畑 豊明氏投稿


 日台友好親善登山隊の一員として、台湾の「玉山」(日本統治時代は、富士山より230mほど高いので新高山と呼ばれていました。3999mです。)に登ったときのことです。太平洋戦争の真珠湾攻撃の暗号無線名「ニイタカヤマノボレ」は憶えておられるでしょう。
 台湾の都市は東西の海岸線沿いにあり、後は山間部です。そのために山岳地帯はすべて地下要塞が作られ、軍以外は山岳地帯には一切入れません。(政府発行の許可証が必要となります。)
 新高山に登るには、台中より森林鉄道に乗り阿里山まで行きます。森林鉄道は、昔、東京新橋を走ったような小さな機関車が、大木を運ぶ無蓋車に小さな客車2両が連なって、スイッチバックをしながら阿里山まで上っていきます。(台中の隣りには嘉義があり、戦前の夏の甲子園に嘉義農林校が出場したことがあり、年配者は憶えておられますか。)
 阿里山で入山許可証の確認のため、二日間居ました。その時のことです。「日本の方ですか。」と、年配の日本人より声をかけられた。「ワサビ調査のため阿里山に来ましたが、山の谷川、山間部に入れずに困っています。」とのこと。日本統治時代には、たくさんワサビが自生していると有名でした。「中華料理にはワサビは使用しないので、現在どうなっているのか。状況によっては日本に輸入できないか。」と調査したいとのことでした。
 阿里山より1時間登ったとき、足元に小さな枝切れの上に生ワサビが3本ほど置いて売られていました。人家もあるような山間でなく、高砂族の方々でしょうか。(日本人が今日登ってくる情報があったのでしょう。)私たちは、登頂後は大理石渓谷で有名な太魯閣の方面に下山しますし、帰国時に税関で引っかかるのもかなんので、買わずに見ながら行きました。
 その後、台湾生ワサビは輸入されたのか、どうなったのか。心に今でも残っています。



№7(2020年5月)

      池をめぐりて
 
                    大山務憲氏投稿

 数日ぶりに外に出てみる。天神さんの池堤もすっかり人通りが消えて、子どもの手を引いた若夫婦等々、数組すれ違うだけ。
 桜も葉桜に変わり、真紅に映えていた鳥居からのサツキの中道も、雨に打たれ薄汚れた赤茶の残花がへばりついていた。境内の樹木に若葉の芽生えが五月の訪れを告げている。
 池の回廊を渡り、向かいの東屋に腰を下ろす。前の小池に今が盛りのキショウブが満開です。
 一昨年春の花見の残像が頭をよぎる。残り酒を集めて数人の呑み助でテーブルを囲み、辺りかまわず気勢を挙げた……その時の鎌チャンはもう居ない。
 昨年、年の瀬も押し迫った12月25日、桂病院に彼を見舞った。
 私は、「俺も来月入院するから…」。彼は手を差し出し、私の手を握り「待ってるからね!…」と言ってにっこり笑った。
 温かく柔らかな感触。今もなお残っている。
 明けて正月元旦、一本の電話で彼の逝去が告げられた。
 約束を守らず、わずか一週間で彼は旅立った。
 彼が愛し、代名詞ともなった<天神の杜>の池面を渡る風は、肌寒かった。



№6(2020年5月)

      所 感
 
                    加藤裕之氏投稿

 人間は男性と女性、動物はオスとメス、花はおしべとめしべがあり、子孫を残していく。花は蜜を作り蜂を呼び寄せ、蜂の体は花粉が付きやすくなっていて受粉を助けてくれる。
 いったい花は、このような蜂のいることを知っているのだろうか。
 このオス・メスのシステムはどうして出来たのだろう。
 今、新型コロナウイルスが猛威をふるっているが、このウイルスにはオス・メスがない。呼吸もしない。栄養をとり老廃物を出すこともしない。一切の代謝がないのだ。また大小もなく皆、同じ形をしている。特殊な条件で濃縮すると「結晶」となる。まったく物質である。
 しかし、いったん宿主の細胞に付着すると、その細胞の中にウイルスのRNA(又はDNA)を注入する。細胞は、これを異物とせず、そのRNAの遺伝情報どおりの活動をしてウイルスを作り出すのだ。このウイルスが細胞膜を破って出てくれば、ウイルスの子孫の誕生である。
 いったいウイルスは、生物なのか無生物なのか。この議論は決着していないらしい。
 そうするといったい「生命とは何か」となり、さらに「人間とは何か」、「人間を生じさせた宇宙とは何か」、「宇宙の生ずる以前とは何か」となる。私は、これらの謎が一日も早く明らかになることを望むとともに、明らかになるに従って、人類は本当の平和な共存の哲学(宗教)を持てるのではないかと思う。



№5(2020年4月)

      私の趣味
 
                    木村嘉男氏投稿

 皆さんはどんな趣味をお持ちでしょうか。私もいろいろありますがそのうちの一つをご紹介します。
 それは「謡(と仕舞)」です。流儀は宝生流、その名にちなんで宝寺の一室をお借りして稽古しています。先生は京大農学部出身という変わり種ですが、若手のシテ方として一番将来を嘱望されている方です。思わず聞きほれてしまうような素晴らしい美声の持ち主で、たびたびTVにも出演、普及活動で欧州にも何度もお出かけになっておられます。
 ところで超音痴の私がなぜ?と思われるかも知れませんが、その秘密は謡の発声にあります。謡には洋楽でいうドレミのような絶対音階がありません。自分の一番出しやすい聲を中とし、下は下・下の下、上は上・上の上・ウキ・・というように個人個人の聲が基本にありますので、発声がしやすいからです。
 今年はコロナ騒ぎで中止になりましたが宝寺での“鬼くすべ”では裃姿で謡を奉納し、餅まきのお手伝いをしたり、年に一度の大江能楽堂の発表もあったりして、伝統芸能に参加しているという誇りも持てますし、とても楽しい会です。稽古の後に希望者は写経もしています。
 私も、という方ご参加お待ちしておりますヨ。


会員リレーエッセイ№1~№4は、「男の居場所新聞」に掲載しています。

男の居場所新聞


2020年3月号こちら


2020年2月号こちら


2020年1月号こちら


2019年12月号こちら


2019年11月号こちら


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2019年4月創刊号こちら

その他


  ホームページ・アンケート結果報告

                               (2020年7月31日集計)

 会員42名のうち35名からアンケートを提出していただきました。
 インターネット接続端末機の保有状況ですが、パソコンを持っている会員が30名、スマホが24名、タブレットが9名でした。
 個人ごとの保有状況を見ますと、パソコン・スマホ・タブレットすべてを持っている会員が7名、パソコンとスマホを持っている会員が15名、パソコンとタブレットを持っている会員が1名、スマホとタブレットを持っている会員はゼロ、パソコンのみの会員が7名、スマホのみの会員が2名、タブレットのみの会員が1名、インターネットに接続できる端末機を何も持たない会員が2名でした。
 「男の居場所」の会ホームページの閲覧状況は、週2回以上が20名、週1回程度が8名、月2回以上が3名、月1回程度が2名、月1回未満はゼロ、見たことがない会員は2名でした。
 「会員専用」ページの閲覧状況は、「見ている」が26名、「パスワード等を知らなかったので見たことがない」が2名、「パスワード等が面倒なので見たことがない」が1名、その他が4名でした。「その他」のうち「パスワード等を入力したが見られなかった」が3名、残りの1名が、「『男の居場所』の会が休会中だったので見ていなかった」ということです。
 「会員掲示板」の投稿・閲覧状況は、「投稿したことがある」が18名、「投稿しようとしたが出来なかった」が2名、「投稿したいが不安があるので投稿していない」が3名、「閲覧しているが投稿したいとは思わない」が6名でした。「閲覧の仕方が分からない」と「閲覧したいと思わない」はいずれもゼロでした。
 「ご意見・ご要望・ご感想等」欄には、「見やすく便利」とか「会員掲示板などコロナの時期に適切な対応」等、評価する感想がある半面、「パスワード等は面倒くさい」とか「機械音痴には使いにくい」等の感想もありました。そのほか、「『会員掲示板』の投稿、『自由投稿』、『リレー投稿』と紛らわしい」、「リレー投稿は、エッセー集的な位置付けにしてはどうか」、「変化のある内容にしてもらいたい」、「会員掲示板が、個人ブログ化している」等の意見がありました。
 アンケートへのご協力ありがとうございました。



 端末機を持っておられない会員も、こちらでホームページを見ることができます。(ただし共用パソコンでは、パスワード等を保存せず、見終わった後はインターネットの画面を閉じてください。)

「男の居場所」の会

〒617-0833
京都府長岡京市神足2-3-1
長岡京市立総合交流センター1階
市民活動サポートセンター内