沖縄離島の旅

川﨑泰弘

2021年7月26日に新たに世界自然遺産に登録された「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」。
世界的に見ても稀少な亜熱帯の森に、数多くのここだけに住む固有種生物が生息する生物の多様性が高く評価されたことが、登録の理由となりました。
この世界遺産に認定された1つの西表島を訪れることになった。

「お正月の3ケ日が過ぎた頃休暇を取って今度は沖縄の離島の旅をするよ。」
「じ~ちゃん、ばーちゃんも一緒に行く?」と娘から私達夫婦に電話があった。
「飛行機代は私のマイレージがあるから、それを使うので10万円/一人以下で旅することが出来る4泊5日の旅だよ」
娘は助産師で看護師の資格を持っていたが、なかなか休みが取れないでいた。
「いくいくと最初に手を挙げるのが、決まってばーちゃんの悦子さん」。
お正月の間は旅行支援の恩恵にはあずかれないのだが・・・。それでも行くことにした。

1週間後娘から素早く日程が送られてきた。
「2日目の西表島では、私達はカヤックで川上を探検するのだが、貴方たち2人はどうする?」
「どうするといったって初めてに近い離島の旅だ。」悦子は早速ガイドブックを購入してきた。
ガイドブックを見ながら、夫婦は観光とスケッチができたらと考えていた。
旅は旅行計画を練るところが醍醐味だそうだ。
「シーサーを祀る赤瓦屋根と水牛車で観光する竹富島」「「浦谷川クルーズがいいね」「水牛車で由布島に行くのがいいね」と2人の意見が一致した。
ところが娘から「浦谷川クルーズまではどのようなアクセスで行くの?」「由布島に渡って何するの?」「由布島に渡ってなにするの?」機関銃の如く浴びせられる質問に夫婦は閉口した。
「無料バスが上原港からでているからそれで行くよ」
「そしたら、浦谷川クルーズ船を下りて50km先の旅館までどうするの?」
「バスのアクセスはよくないし・・・」次々に浴びせられる質問にガイドブックの読みこなしもできずにいた2人は困ってしまった。
「まあ、なんとかなるさ。」旅で難局を切り抜けてきた老夫婦であったからだ。
「離島ではレンタカーを借りるのはベターだよ。」
「1日目の宿は竹富島、2日目は西表島のジャングルホテル、3日目は石垣島のホテル」に泊まる計画である。何とか荒い内容であるが予定が出来上がった。
ホテル、レンタカーは娘が予約してくれた。
やっと旅の出発の日の当日になった。
日程では、6時4分と6時17分長岡天神駅と書かれていた
5時40分に自宅を出発し、天王山駅に着いたら5時50分の準急が来た。
娘たちは孫を連れて行くので、5時59分でよいと思っていたので、悦子はいつも早く行こうと言い出したのを止めた。娘達は既にモノレールで大阪空港に向かっていた。
空港で待ち合わせて合流することになった。
悦子がJALの出発ロビーに行くのを止め、」ANAの出発ロビーへと向かった。
娘と孫とそこで合流した。
朝食は抜いて出てきた。飛行機の中で朝食が出るかと期待していたが、あにはからんやそんなサービスは今のご時世では通じないことが分かった。
沖縄から石垣島までは飛行機を乗り換えで行くので、その間腹ごしらえをすることになった。
悦子は🍙を2人分購入したが、娘たちは八重山そばと石垣牛の肉うどんにしたので、じーちゃん も娘と同じものにすることにした。悦子は🍙をほうばった。
残った🍙はどこかで食べたらと持って行くことになった。
沖縄空港から石垣島へは、ANAの子会社のソラシド航空で移動した。
その日は、石垣島経由で竹富島に宿泊することになった。途中、石垣島空港から離島行きの船が発着する石垣離島ターミナルまで多くの人が乗っていたが、バスが運行して経路の真ん中位にきて満員のバスの中で私を見て気の毒に思ったのか若者が「席を変わりますので、」と言って若者が席を譲ってくれた。
なんと優しいのか?おれもついにこの年頃になってしまっていたのか?複雑な心境になりつつ若者の厚意に礼を言って座ることにした。
もうそうした年齢になったのかと思いつつ、ご厚意に甘えた。30分の行程である。

バスは離島を就航するフェリーの乗船場についた。
石垣島離島ターミナルから竹富島までフェリーで行くことになった。
通常沖縄離島の旅は石垣島で1泊してそこからフェリーで離島各地に移動するのが普通とされている。ところが、今回はその日の内に竹富島まで行き、そこで宿泊するのである。
「竹富島の朝食はご飯ですよ」
「ちょっと待って、朝起きてご飯は過去にお腹を壊し易い私はパンがいい」と駄々を言った。
「悦子は着替えに半袖のTシャツがない。」と言い出した。
「何故半袖のTシャツを忘れてきたの?暑いところにくるのに信じられない」と娘に言われていた。
沖縄は20℃の気温で京都では10℃と比べ10℃も高かった。
悦子は、Tシャツとパンを買って来てくれた。しかし、パンは4斤の大きさしかなかったとそれをナイロン袋に入れて、乗船を待つ我々の所に戻ってきた。
その間、娘はフェリーに乗船する切符を買い求めてきた。
出発の時間がきたので乗船口に出向いた。
「切符を見せて下さい」と係員が手を出してきたので、娘が係員に切符を渡すと大人3人、子供1人の乗船券になっていないらしく、続き番号での発行券が間違っていたらしく乗船できない。
「可笑しいな?発券する係りの女性には大人3人、子供1人と言って発券してもらったのに?」
「ここに領収書もある」
出発時間が迫っている。他の係員が発券の女性の方に急いだ。
後で分かったことだが、受付の係員が大勢の人の券を抱え、入れ間違ったようで事なきを得た。
私達の旅は何時もハプニングがある。ハプニングの始まりかと危惧した。

フェリーは竹富島に到着。宿屋の主人が車で迎えに来てくれた。
竹富島についてのガイドブックは、赤瓦屋根の集落をのんびりと巡る水牛車
石垣島の南西6km、周囲9.2kmの小さな島。白い砂の道とカラフルな花々も見受けられる石垣の連なり、赤瓦の民家や屋根の上のシーサーなど、沖縄の原風景が広がる。約480年前の尚真王時代、竹富出身の西塘がここで八重山を統治、当時の役所跡である「蔵元」跡が残る。また、島の集落が国の重要伝統的建造物群保存地区で、明治末~大正期建築の赤瓦屋根の選定された民家112軒がずらり。地区を約30分でめぐる水牛車観光も有名。
この集落の入り口にある宿が今日泊まる宿だ。
1日6家族しか泊めない宿であった。
屋根は赤瓦でシーサーが祀られ、ハンモックやリクライニング用の椅子が置かれていた。
「やっと着いたね」時計を見たら15時は過ぎていた。フライトから7時間が経過していた。
主人が案内してくれた。
「18時から夕食に、朝食は7時になります。」
「サイクリングが出来、自転車はこの宿に持ってきてくれます。返却はこの宿でOKです」
娘、悦子、孫はサイクリングに出かけた。
私は主人に聞いてスケッチに出かけた。竹富島の人々の生活に根付いていた赤瓦の屋根の建物群が見られる展望台「なごみの塔」に向かった。
赤瓦の傾斜が60度もある階段は幅およそ45cmしかないため、一人ずつしか上れず、展望台のある頂上の部分も大人二人で一杯になってしまうほど小さな展望台ですが、現在は登降禁止となっている。その部分が家々の赤瓦屋根を一望でき、その竹富島を象徴する景色なのだが・・・
それではどこかに展望の良く見晴らせるところがないものかと探していたら、ありました。
隣接するあかやま展望台がありそこからの眺めが人気そこでスケッチした。
あかやま展望台は100円の有料となっていたが、まず屋上に登って後で払えばいいいと思い屋上に登った。眼前に広がる赤瓦の沖縄独特の屋根群が展開されていた。昔からの村の集落が、そこにはあった。
18時の夕食まであまり時間が足りない。アウトラインのスケッチをボールペンで描き、赤瓦の屋根等は色付けした。
ペンタッチで描くことはあまり好きではない。線でごまかしの様に感じるからだ。
スケッチを終えて階下に降りると、ドアが閉ざされ閉館の案内があった。
「しまった! 閉じ込められたのだ。そう思ったが近くに人の気配がない。どうしよう!」と考え
階下を下りてきた裏側に廻った。表に出る道が垣根越しに見つかった。
「ああよかった。」事なきを得たのである。
急いで宿屋に戻ったが、まだ夕食の時間には1時間ほどあるので、5分で行ける夕日の奇麗な海岸に行くことにした。
そこは西桟橋と名付けられ、フォトジェニックな夕景スポットとして人気があり、国の重要文化財に指定されている。
かつて竹富島には水田がなかったため、この桟橋から小舟で西表島まで稲作に出かけていた。現在はサンセットスポットとして人気を集める。
ところが私の行ったときは、曇天でサンセットは見られなかった。
サンセットを観ようと訪れていた女性2人に出会った。
「サンセットが見られませんね?」と話を待ちかけると「残念だわ」と一人の女性が応えた。
「どちらから来られたのですか?」と私が質問すると「東京からです」と応えた。
「失礼ですが、お顔の容姿からでは沖縄の方の様に見えますが?」と問いただすと「五島列島の出身です。沖縄のサンセットの海が見たくてここに来ました。」
夕日のスポットとして知られていたこの場所は、晴れていたら、さぞ夕日沈む赤とエメラルドグリーンの海が見られたのかと残念に思った。
私を知る知人は、旅に出て見知らぬ女性によく声を架けられるねと何時も不思議がられている。
友人などから「俺なんてお前の様に見知らぬ女性に声を架けることなんてできないね。」と言われるのだが・・・
これも私の特権?

別れて宿屋に戻った。日は段々と日没に近づいていた。
宿屋に帰るとサイクリングから帰った孫がいた。「ママとばーちゃんは?」と問いただすと、坂道や砂地に悩まされていたらしく、保護者の2人を置き去りにして孫が先に帰ってきていたのである。
続いて悦子が返ってきたので、まだ18時まで時間が有ったので、その自転車を借りてサイクリングで島を回ることにした。
水牛や水牛車の駐車場、可愛いい郵便局、ハイビスカスが似合うこの島の小学校を見学した。
ある家に白いシーサーの彫刻のある家も前を通った。
宿屋に戻って準備された机に陣取った。日本の古民家の様で40年以上する建物で、梁も驚く程太く、天井の、空間も広い部屋であった。
沖縄の魚、八重山蕎麦、天ぷら、鍋等量も半端じゃなかった。
宿泊する部屋は田舎の部屋にバス・トイレがついて、ガラス戸を閉め蝶番の鍵を下ろす仕組みで都会のドアロックや鍵を架けるといったものでなく、簡易のものであった。
渥美清のフーテンの寅さんが沖縄で入院していた彼女が滞在していた光景とよく似ていた。
もう一日この竹富島で泊まって行けばよかったと思いつつ、明日は由布島に渡り、水牛車で浅瀬の海を渡るのである。

竹富島の宿屋の主人が港まで送ってくれた。そこからフェリーで石垣島に戻って西表島行きの船に乗船した。昨日は風雨が激しかったので、フェリーは欠航したのを知らされていたので、本日は運航していてよかった。
西表島の玄関である大原港に到着した。そこでレンタカーを借りることにした。
レンタカーは、1日分9800円/台で借りることにした。本土と比べ安い!!
レンタカーの返却は、「ガソリンは満タンにして、鍵を車のポケットに入れ、大原港のどこかの場所に置いておいてください。」とレンタカーの業者は言った。
悦子の運転で全員4人移動することになった。
予め、娘が予約した軽自動車・ダイハツMOVEである。悦子は運転し易いと舵を取った。
いよいよ西表島の車道を始めて走ることになった。
西表島は西表山猫とマングローブの森が有名だ。
至る所に山猫に注意の看板。目指すは海を渡って西表島から由布島に水牛車で渡る渡し場である。
愛車ではなくレンタカーによる初めての島内のドライブ車であったが、一本道ということもあり順調に由布島の渡し場に到着した。
水牛車も1時間毎に運行のためか既に運行し、次の運行は1時間の後だ。
私が先に行って水牛車の馭者と掛け合った。
「もう出てしまいましたよ。次の便は30分後になりますよ。」
「しまった。もう少し早かったら」と地団太を踏んだ。
ところが1台水牛車が残っていて空いていた。恨めしそうにしていた時、孫が到着した。
それをみかねた馭者の70代のおじさんが「何人乗るの?」と聞いてきた。「4人だけど」
「先に2人のお客さんも待っているので、じゃ乗って」と許可を出してくれた。
可愛いい孫が来たのでおじさんも嬉しかったのか、
「お嬢ちゃんここにのりな」と言って馭者台から進んで下りて孫をその場所に据えた。
「写真を撮ってもいいよ」そのおじさんは言った。
眼がパッチリとした孫がおじさんには可愛かったらしく態度が豹変した。
水牛車の水牛のアップで力強く、可愛いい赤い服を着た孫を写真に収めた。
この状態で、後に絵にすることにした。嬉しそうな孫の馭者はよく似合っていた。
6人を乗せた水牛車は出発した。
浅瀬を通って向う岸の由布島にゆっくりと動いた。20人乗りの牛車は軽く感じたのであろう。
馭者に戻ったおじさんは機嫌がよかったのか、牛車の中に置いた三(蛇)味線を徐に取り出し、島唄を口ずさんだ。
哀愁を伴うこの歌は周りの風景と同化して物悲しく聞こえた。
由布島に到着した。料金所に乗車賃を支払うため、受付に急いだ。
その後、由布島美術館に入館した。
この島にとって水牛は神様の様な存在だ。至る頃に水牛に関する写真が飾っていた。
中でも際立ったのが、巨大な角を祀ってある故大五郎と名図けられた水牛のものである。
台湾から花子と一緒に輸入され、現在の水牛の祖先の始祖であった。
由布島に関する記事は下記である。
西表島から東へ500メートルほどの近くにある由布島。西表島から水牛車で渡る牧歌的な風景で知られている由布島。近世に稲作が不作の竹富島や黒島の島民は、西表島に水田を開き、舟で通って耕作を行っていた(通耕)。その際、マラリアの有病地であった西表島を避け、無病地であった由布島に田小屋と呼ばれる仮住居を置いたのが、人が住むようになった始まりとされる。
南国の草花のブーゲンビリアやヤシの木等南国の木や花々咲き誇り、ゆったりとした島時間の流れる空間満喫しました。楽園の入口に当たる場所で、水牛に触れながら撮影してくれる場所がありそこで4人が水牛を囲んで記念撮影をした。1700円もしたけれど記念になった。

まず腹拵えにと入った食べ物屋の名物は八重山そば。越がしっかりしていて本土の中華そばと和風そばの間の味だ。
植物園内は果樹園も併設され、蝶々乱舞する蝶々園に入った。
ブーゲンビリアの赤い花の花弁に止まる白と黒の線が入った蝶々。蝶々園では、様々な蝶々が優雅に飛び交っており、楽しく観察した。ここの注目は日本最大の蝶類であるオオゴマダラで、優雅に飛ぶ姿はもちろんですが、金色に輝くサナギも注目を集めているとのことである。
続いて、喫茶入りたくなって由布茶屋に足を運んだ。
マンタの生息が観られる岸の茶店に入った。ジュラードを注文した。
都会の喫茶にも劣らない味で我々を迎えてくれた。
置くだけで癒される、海と植物に彩られた贅沢な空間に席を置きながら、南の楽園でのひと時を過ごしていた。

水牛車が由布島を出る時間が迫ってきた。悦子はまだのんびりとしてジュラードを飲んでいる。
「先に行こうか」悦子を残して水牛車の待つ出口へと急いだ。
16時30分が最終便であったが、16時の便には何とか間に合った。
悦子がなかなか来ない。
「兎も角、乗車口まで急いで行くことにした」
「待って」と言う悦子の声が植物園の出口付近から聞こえてきた。
16時出発の水牛車は出発していて、残り1台水牛車残っていたが、運行さすべきか悩んでいる所であった。
なんとか追い付いた悦子であった。
「なにしてたん。」いつもは人を待たせる人がいたら、苦言を言っていた当人であったが、自分の事になるとからっきしダメなのかと思った。
「海岸の砂浜の波打ち際の貝殻が美しかったので拾っていたの?」 と悦子は言い訳をした。
息絶え絶えに走ってきたらしく、苦しそうであった。
娘と私はけしからんといった目つきで悦子を見やあっていた。
なんとか間に合った。この便を逃すと、30分待たなければいけないから・・・
若い馭者が待ち構えていて滑り込んだ。
若者の馭者になると質問をしたくなる悦子さん。
「地元の方?長く馭者をされているの?何故馭者になったの」
その若者は質問攻めでも気楽に応じてくれた。
「地元出身の若者は他府県に出稼ぎに行き、馭者には地元出身はほとんどいません。」
「私は地元の者ではありません。3年前から馭者になりました。神奈川から移住して来ました」
「神奈川ではサラリーマンをしていましたが、嫌気がさしてこの地にきました。石の上も3年と言いますからこの地で頑張ろうと思います」と決心した気持ちを言葉にした。
都会には馴染めず、自分の居場所を見つけて人生を送っている若者がいるのだと思いました。
若者馭者の水牛車は先に行った女性の馭者を追い越した。
後ろから来る水牛車女性が三味線を取り出し、島唄を披露してくれた。
もの悲しい島唄が奇妙に心地よく耳に入ってきた。
水牛車は西表島に置いた車の場所近くまで我々を運んでくれた。
ゆったりとした時間が過ぎていくのを感じた。

レンタカーで今日の宿泊先であるジャングルの中にあるホテルの宿泊地に向かった。
西表山猫の突然の飛び出しに注意喚起の広報に注意しながら走行した。
悦子の運転は慎重で、ナビゲーターは娘がした。
乗り物に乗ると決まって寝静まる孫は、後部座席で足を絡めておとなしく眠っていた。
私も車や列車の乗るとよく寝たものだ。孫も遺伝かな?やがてホテルに着いた。

亜熱帯植物に囲まれたこのホテルは紛れもなくジャングルを切り開いた中に建てられたホテルである。
「ジャングルホテル パイヌマヤ朝勇」が本日泊まるホテルである。
娘の勤め先との契約ホテルであったため、3200円の割引が出来ラッキー。
若者中心のホテルかエレベーターもエスカレーターもなく、階段を昇って荷物を運ばなければならず、やや閉口した。
二階の廊下を行くと、一番奥まった隣の部屋が我々の宿泊場所だ。2部屋が確保されていた。
ややゆったりとした洋室であった。
「夕食まで時間があるので、ホテルの傍に散歩道があるというので行かないか」と誘われて行くことにした。孫はゲームをしていていかないというので、3人行くことにした。
ホテルが宿泊者向けに散歩道として作ったのであろう。熱帯の木々が生い茂っている散歩道を行くと、「じ~ちゃん沖縄では毒蛇のハブが生息しているので気を付けてね。」と橋を渡ったところで後ろを気づかった。
恐る恐る足を運んだ。娘が足を止めた。どうもそこが行き止まりの終点らしい。
取って返し夕食に行くことにした。
コロナ禍のバイキング料理のためビニールの手袋をはめて食事をした。
「明日の予定どうする?私と孫は西表島カヌーとトレッキング体験ツワーに行くのだけれど、貴方達は何処に行く?」と問われ、浦内川クルーズと応えた。
「クルーズは精々4時間位だよ。それでは時間を持て余すよ。大原港からでるフェリーまで8時間はあるよ。」私達2人は研究不足を悔やんだ。
「西表島の端っこに船のみで渡る船浮という集落があるよ。」「何故かしら人気があるらしい」
「ひょっとして古い集落が描けるかも知れない。」そう思った2人は、早速ガイドブックで船浮をみた。詳しいことは分からない。ゆったりとした島時間を過ごせるとこだけは理解できた。
定期船の時刻表を調べてみた。午前中は白浜から8時45分、10時55分の2本しかない。
宿泊場所から白浜まで車で1時間30分位かかる。絵も描けるかも知れないとそこに行くことにした。

朝が来た。別の部屋に泊まった娘と孫とは別行動だ。
7時になっても悦子は起きようとしない。寝入ってしまっていた。昨日の運転で疲れたのだろう。
しかし、白浜港に車で行って、船浮港への定期船に乗るには、すぐにでも出発しなければならない。
部屋の電気を明るくしてやっと気付いたのか急いで朝食と帰るための準備をして、車に詰め込まなければならない。悦子を部屋に置いて朝食をすませたら、悦子も起きてきて朝食を済ませ、いざ出発。
一本道であったが地図を頼りに白浜港に急いだ。なかなか白浜にたどり着かない。
ナビゲート役をした私は、MAPを見ながら、***を通過など確認しながらドライブをした。
始めて運行する道はなかなか分からないものだ。
出発の10分前に港の駐車場に着いた。船着き場までそこに見えるがなかなか着かない。
やっとのことで白浜港に着いた。そこから船浮港まで10分の定期航路だ。

白浜港から船浮港まで10分の航路は、波穏やかで天気も晴れで美しい青空であった。
ひなびた港にその定期船は到着した。離島と無人島との細い海峡を通り抜けると、秘境を思わせる船浮港に着いた。乗客は5人と少なかった。
そこいらを探索して集落を探したが、探し方もわからずどうやら集落はないらしい。
案内の看板を見た。竹富町と書いてあった。竹富島の本家?名前を取られたのか?
まあ絵を描けなくても島時間を楽しもうということになり、道沿いに密林の中に入っていった。
密林の中の1本道を通って歩いていった。道脇には、年輪を刻んだ大木や蔦や木々が左右に広がっていた。
視界が広がったところに亜熱帯の雰囲気が漂う密林の森を抜けたところがあり、砂浜と真っ青の美しいエメラルドグリーンの海が眼前に広がった。
後で判ったことだが、道々出くわす日本人も含め外国人も出かけてきていたお目当ては、沖縄屈指の美しいビーチを観光するためだと判った。
2人はそこをスケッチ場所に選びスケッチした。
悦子が腰を下ろして間もない頃、波間に見える大きな海亀の顔が見えた。
海水の波間からなんと海亀が頭をもたげている光景が見えた。
悦子は興奮して指をさしながら「海亀がそらそこにいるよ!」
「はやく、はやく写真を撮って」と囃し立てた。
悦子が指さす方向を見るとビーチの岸に近いところに指さすその先に海亀が波間から顔を出した所だ。
私は、写真機を取り出し写そうと写真のシャッターに手を架けたとたん、す早く海の中に消えてしまった。
残念!!地団太踏んだけれど後の祭り。再び海亀は浮上しなかった。
ここで悦子共々スケッチした。イダの浜と呼ばれるビーチである。
ビーチに入る人もあったが、流石に泳いでいる人はいなかった。
腹ごしらえで港にむかった。
その頃娘から電話が入っていた。
ホテルから娘に電話があいったらしく「ばーちゃん。水牛の島で4人を撮った記念写真を買い求めたのをホテルに置き忘れているよ。」と言う内容であった。
大原港に帰るときに受け取りに行くことを返答した。

この島には“カマドマ”という地区があり、船浮にすんでいた絶世の美女がいて、船浮に住んでいたカマドマという美女と、船浮に赴任した「殿様」と呼ばれる役人との恋をうたった「殿様節」の歌碑。「殿様節」は竹富町の無形民俗文化財(民謡の部)に指定されている。
昼食時に当たっていたので食事をとることにした。
いかにも歴史のある古い建物に入った。
室内には、魚拓が所狭し板塀に並べてあった。そこは船浮の近海に住む釣りあげた魚の釣り人の家で、90歳と年配の母親が営む食堂であった。
八重山そばをまた食した。美味しかった。
船浮港から定期船は白浜港に向かった。
白浜港から次の目的地の浦内川クルーズに行くことにした。
西表島を周回する一本道をドライブしながら浦内川クルーズの乗船場所に向かった。
浦内川は沖縄県で最長の川で川の両岸にはマングローブ林が発達する。 上流の船着場から歩いてマリユドゥの滝、カンビレーの滝へ行けるクルーズである。
14時30分から1時間のクルーズに乗船した。
上流の船着場から歩いてマリユドゥの滝、カンビレーの滝へ行って、下船後、ドライブして石垣島行きのフェリー線船の出港する大原港に行くまでの時間が少なかった。
娘からLINEでツアーを楽しんでいる映像が入った。
カヤック、滝登り もう少し若ければと恨んだが、時は進んでいた。時計を戻せないものかと悔やんでみたがどうしようもなかった。
マリユドゥの滝、カンビレーの滝まで行くのは中止し、終点まで浦内川クルーズに2人は乗船した。
マングローブ林が広がるその景色は、ジャングルに探検に行く様な感があった。
浦内川にクルーズ船が航行していく。
「マングローブの生い茂る林はまるでジャングルです。昔は右手に見える少し密林の木々を取り除いた場所に人間が住んでいたのですよ。この浦内川は海からの水の通り道で、大雨の場合には、密林の山の上まで水が漬かることがあって、人間が住めなくなったらしい」
「今、 浦内川クルーズ船を運営する会社の社長がここに最近まで住んでおられたのですよ。」とクルーズ船を運転する船長は案内してくれた。
「発券をしてくれた親父がこのクルーズ船を運営する社長だ。」「後でその顔を見てやろう」と呟きながら川面の波を見ながら流した。
案内の船長は話を続けた。
「また、西表島山猫は、元々泳ぐことが出来なかった。しかし、水害の影響で密林間の中を浦内川を泳いで渡らなければならず、移動するために自然に泳ぐ能力がついたそうだ。」
生きて行くために、泳ぐ技術を取得する必要にかられた能力だそうだ。
泳ぐ技術は犬掻きだそうだ。
クルーズに乗船した人々は、川面に山猫の泳ぐ光景が見えないかを目で追っていた。
マングローブの茂る密林を横目にクルーズ船は終点にたどり着いた。
下船して社長をもう一度見てやろうとした。
やぼったい親父の姿がそこにあった。凡そ私の知る社長のイメージではなかった。
下船後すぐ写真を忘れたホテルに向かった。
その足で石垣島に向かう上原でレンタカーを返さなればいけない。
一路、大原港に向かった。
太原港に無事到着した。安堵した。
ところが、大原港には多くの車が港の周りに駐車していてレンタカーを止める場所がない。
駐車禁止のカラーコーンがある場所があり、カラーコーンをずらしてレンタカーを駐車した。
「そこは駐車禁止ですよ!!」と車に乗った男が言った。
「まずいと思ったが後の祭り!!」
「こんな時機転が利くのが私」
「それじゃどこに停めたらいいのですか?」逆に啖呵を切った。

流石、西表島の住民は親切だ。
「一番奥の所に空いている場所があります。そちらをご利用ください。」と親切に応えてくれた。
ところが、港の奥と言っても多くの車が駐車していて、何処に行けばいいのか分からなかった。
やっとのことで見付けた駐車場所は、船着場から歩いて20分はかかるところだ。
そこにレンタカーを停車した。車の中に鍵を入れ、そして扉を閉めた。その前にレンタカー会社に連絡を取った。
石垣島への最終便にはなんとか間に合った。
もし、滝へ行っていたらと思うと早く到着してよかったと思った。
石垣島行きのフェリーは2社ありました。
17時発の会社のフェリーにすることにした。
17時30分の会社の最終便があった。スケジュールで大原港から娘が乗る船であったが私たち夫婦は先に出る石垣島行きに乗船した。

船は出帆した。
ところが確認不足だったことが後で判った。
即ち、石垣島に到着する前に別の島に寄り道していくことなっていた。
石垣島への直行便ではなかったのである。
船は寄り道する港に到着した。島から乗客が沢山乗船してきた。
夫婦は船の2階のデッキで風に吹かれようと2階に上った。
しかし、その場所は鍵が掛かっていて行くことができません。
そこで、2階の大広間で座ることにした。
私達夫婦と子供を抱いた夫人の3人であった。
ところが島から乗船した外国人6人もデッキに出ようと2階の大広間を通ってデッキに出ようとしたが出られないことが分かると、応接風のその大広間に陣取った。
静かな応接間が一変した。
赤ちゃんをあやす外国人、マスクを外して会話をまるで堰を切ったように唾を飛ばしながら大きな声で話し始めた。
口角飛沫の状態である。新型コロナが飛散するような危惧を被った。
新型コロナで会話をする場合2m以上を話すとか、自粛を強いられているにも拘わらず、我慢しなければならなかった。船は乗客で満員だったのである。
仕方なく一階に降りることにした。
フェリーは石垣港に到着した。
夫婦は石垣島の最終のホテルを探さなければならなかった。
娘からLINEでホテルの案内はあったが、なんせ初めてで土地勘もない。港から出て信号を横切ったところで不安視していたら、娘の船も到着していて後ろから付いてきているではないか。
「ああよかった。」夫婦は安堵した。
娘に従って夕闇の石垣島の街を歩いてホテルに向かった。
石垣島の港は各離島に行く船の玄関先で賑わっていた。
「港の近くのホテルは高級で値段が1万円/人以下はなかった。
夕日も西に傾き、夜のとばりが訪れていた。
どれ位歩いたかやっのことでホテルを探し当てた。夫婦なら迷っていたなと思った。
ホテルについて部屋を案内された。
「今日は4人で1部屋に寝ることになっています。5ケ月前から予約したので1万円の料金です。」
12畳ほどの部屋に4台のベッドが並んでいた。
「私も鼾をかくが、バーちゃんの鼾に昨日は悩まされたので、ひと部屋を取ってと駄々を捏ねた。」
「5ケ月前の予約で1万円ですが、今から一部屋取ると1万6千円はするよ。」娘にたしなめられ」
もう仕方がないということで渋々OKした。
夕食と朝食はホテルで食べないことにしていたので、夕食の場所を娘がスマホで探しはじめた。
「石垣島で石垣牛の専門店が近くにあるのでそこを予約するね。」と言って手配した。
ところが予約しないと来店できないので予約を入れたが満杯。
「明日本土に帰るので、8時過ぎでもいいのでお願いします。」としつこく粘った。
「それなら、PM8時に来て下さい。」と色よい返事をもらった。
そこで、私は焼き肉店に行くまでに時間に余裕があったので、鼾対策に耳栓と鼻呼吸による安眠テープを薬局に買いに出かけた。
薬局を出て焼き肉店に向かった。一般客を装って店に行った。案の定予約がないと来店できない。
ホテルに向かう道でばったり娘、孫、悦子に出会った。
「お店の人はPM8時から来てくださいと言われていたのに、先に行って。店の人は忙しいのに!」
「お店の人の気持ちになってあげて!」とこっぴどく叱られた。
「納得。親父失格?」
PM8時に焼き肉店に入った。
石垣牛は焼き肉のランキングで最高級の5等級とされていて、店は大いに賑わっていた。
牛の数々の部位を食し、全員満足であった。美味しかった。
ホテルに帰って帰る準備をすることになった。
帰りは格安航空ピーチ航空で帰るため、7kg以内で2つの荷物の制限があり、重量オーバーは追加料金が請求される。
それでは宅急便でスーツケースを運んでおけばいいことになった。
私のスーツケースをチエックして、私のパッキングが悪いということになり、パッキンのし直しをして、ホテルのロビーから自宅に送ることになった。
飛行機は格安航空のせいか沖縄に旅した若者でほぼ満席であった。帰路に就いた。

投稿:川﨑泰弘

2023年4月14日