2021-3-23 歴史散歩
今出川通り周辺の散策は昨年の11/10に行いましたが、途中で終わっていました。続きは堀川中立売から出発です。昭和21年2月8日夜、北野神社から京都駅に向かう最終のチンチン電車が満員の米兵やダンサーを乗せて下り坂の右カーブを曲がり切れず脱線、転落したという話を聞きました。運転していたのは酔った米兵でスピードの出し過ぎが原因でした。
狭い通りの向かい側にある西陣電話局の説明を聞いています。
1921年(大正10年)に建てられた西陣電話局です。岩元禄(いわもとろく)設計で裸婦像があり当時としては画期的なデザインでした。西陣電話局はいまは京都市の文化遺産に指定されています。
当時お医者さんが住まわれていたというお屋敷です。ベランダや丸窓がモダンです。
安倍晴明を祀った晴明神社に到着です。
なぜか扉に付けられた金属製の五芒星が地面に反射しています。
西陣織会館内に立つ村雲御所跡の石碑。豊臣秀次は秀吉の養子になっていたが、対立して自害、秀次一族を弔うために瑞龍寺が建立された。日蓮宗の門跡寺院および勅願所になり村雲御所と呼ばれた。瑞龍寺は現在は近江八幡の八幡山に移転している。
昭和10年6月の堀川の氾濫で地上四尺(約1.3m)まで水が上がってきたことを示す石碑。住宅街の中に横向きに建てられているので分かりにくい。
西陣中央小学校の南側にある観世稲荷社。学校の敷地内で入れないためこの奥にある観世井と呼ばれる井戸の話を聞いています。京都の北側と西側から流れてくる伏流水で井戸水の水面が波立っていたことから、観世水と呼ばれる波形の文様が生まれました。そこから鶴屋吉信の「京観世」、俵屋吉富の「雲龍」と呼ばれる断面が渦巻き状の和菓子ができたとのことです。
首途(かどで)八幡宮 金売吉次の助けを得て、源義経が奥州平泉に赴く際に道中の安全祈願をした所。このことから旅立ち、旅行の安全の神として信仰を集めている。首途八幡宮は金売り吉次の屋敷跡といわれている。
上七軒を抜けて北野天満宮へ到着。昼食後、神社を北へ抜けると西陣名技碑があります。上七軒つながりで名妓の碑かと思ったら、伊達彌助という美術織物の発展に貢献した技術者(名工)の功績を讃えたものでした。
平野神社に到着。 桜が咲いていて歩き花見ができました。
最後は京都人にとっては安産祈願のわら天神に到着。
境内の床几に腰かけて一服。少しお疲れか、硬い表情の記念写真になりました。
投稿:木村嘉男